20111013

vision

久しぶりの投稿です。言葉を紡ぐ気になれず、日々淡々と言葉にするまでもないことをぼつぼつと考えていました。

震災から早半年。それぞれの人にとって見えてきたものは何だったのでしょうか。
率直な感想を言うと私には
「未来への展望が早急に必要である」、
それ以上も以下のことも見えこなかったのではないかと思います。
これは政治や国家としてのレベルだけではなく、個々人のレベルでも同様です。


先日昨今の転機となった3つの出来事という興味深い議論をしました。
1つは911。
アメリカの支配体制における一種の限界の象徴。
2つめはリーマンショック。
金融資本主義体制の限界の象徴。
3つめは311。
近代社会における科学が自然を自由に操れるという人類の思い込みの限界の象徴。

こうして「限界」、言い換えると「どうにかしなければならない」という現実ばかりを見てきましたが、さて私たちはどうすればいいのでしょうか。
先日、森美術館の「メタボリズムと現代」展を見てきました。
それについての感想はさておき、最も印象に残っているのは最後の部屋に設けられた資料室の中で見た
「2030 東京未来のシナリオ」でした。
豪雨(最悪)のシナリオから小雨→雨天→青空のシナリオまで続きます。
豪雨のシナリオでは東京は廃墟化し、青空のシナリオではバーチャルリアリティーとグローバル化が進んだ最先端のテクノロジーによって構成される街となっていました。
しかしこれはこの不安定な時期に作られたという背景からなのか私の性なのか、最悪のシナリオも最高のシナリオも、どの結末で2030年に至ったとしても東京に住みたくないな、と思ってしまったのです。
なぜかというと、どれも「未来技術がいかに取りいれられているか否か」が重要でまた中心であり、それによって人の幸せが後からついてくるもののように見えたからです。
いかにその未来の技術を上手く取り入れたとしても、私たちは技術によって取り囲まれた存在であり、それはそれはとても空虚なことのように思えました。
それはまさに実質・実態の伴わない数字上だけで取引されているお金に取り囲まれている今の私たちの生活のようにも見えます。

ただ本当に一つだけ、忘れてはならないことはあると思います。
それはこの「終末観」は今だけ特別にあったという訳ではないということです。
今最も忘れられてしまっていることはこのことだとも思うのです。
言うまでもなくヨーロッパ中世のゴシック建築に見られる終末観からの救済を求めたあの精神性はよい例です。
先月は丸々ヨーロッパに滞在していましたが、イギリスのどこに行ってもゴシック建築ばかりでした。

写真はエジンバラです。

キャピタルを求める姿勢、また「人間はいつか生まれたら死にゆく」という言葉の通り終わりに向かうというのは自然の摂理で、それをどう捉えるかはその時代性が出る顕著な例だとしても、今この終末観を「仕方がない」と片づけてしまうことが一番残念なことではないでしょうか。

ついこの前ツイッターの名言botから「人は生まれる時代を選べません。生まれる国も親も身体も。すべて受け入れて生まれるしかない。時代が悪い、社会が国が悪いと言ってるだけでは何も変わらない。まず、すべてを受け入れること。その上で自分に何ができるかを考え、ひたすらそれをやること。そこからしか何も始まりません。(中森明夫)」というフレーズを見つけたのですが、それは本当にその通りです。

そこで前置きが長々となってしまいましたが、私なりに自分が最近思っていることを含め控えめながら提言を行ってみたいと思います。
小さい頃は働くとか、社会とかそれこそ何も知らず、今となってもそれはよく分かりません。


周りに会社勤めの人が少なかったことも影響していると思うのですが、
私にとってバイトをするだとか周りの人を見るとか、そういったことでしか実感として学びとる機会がありませんでした。
しかし、たしかに働いてる人を見ているとどん些細な仕事でも社会を動かしていることがよくわかります。
つい先日岸井成格氏のお話を聞く機会に恵まれました。
その中で実感したことは彼はいままで積み上げてきた彼の経験とから彼が自分が社会でどの位置にいて、何ができて何が専門かをしっかりわきまえたことを前提にお話し、行動しているということでした。
だからこそ彼の話には重みも説得力もありました。
きっと未来への展望は私たちの世代が作り上げていくより、彼のような経験を積み上げてきた人たちが作っていく方がよほどしっかりしたものができると思います。
その彼が私たちに期待しているのはなぜか。
「若い力」、「未来がある」、それで済ませてしまえば簡単ですが
「これから自分をどのポジションに置いて社会を動かしていこうとするのか」
その可能性に期待されているのではないのかというのが私の感じ取ったことでした。

いずれは社会に出て、社会を動かしていくのでしょうが、そのポジション、役割というのは何も決められたところである必要はないのです。
それも野暮に新しい会社を作る、という意味でなく。広い意味で。

昔とても印象に残っている言葉の中にhiromuさんと言う方の
「そのジジイの話によると、歴史っていうのは一人のリーダーや偉人が変えるんじゃなくて、同時期にたまたま現れる多様な才能の出会いと繋がりで初めて動くそうで、そういう人たちと自然に出会いに恵まれて、そういう人たちに自然と影響を与えられる人こそが「歴史を動かす人」らしいですよ。」
というものがあります。
まさに多様な才能が多様なポジションで動いている中でそれが繋がった時に本当に具体的なビジョンというものは生まれてくるのだろうと。
結局何が正解か分からないっていう前に正解なんてないと自分では思っています。だから型にはまったやり方、型にはまっていないやり方、どの道を選んだからといって責められる必要はないとも。アートはそれが顕著に現れてくるんのもだから好きなのですが。もし無理いじして正解を求めるとすれば、それは自分で折り合いつけながら決めていくことでしょう。またその正解という”判決”を下せる概念すら後世を生きる人が決めるのです。

だからこそ、色んな可能性があって、色んなポジションを作れる想像力があるのが私たちの「今」なのだと思います。
「未来への展望を。」という前にいくつかの段階があって、今私たちができることは「未来に必要そうな役割を見つけていくこと、またそれを作ること、それに向かっていくこと」なのではないのでしょうか。

それが私の一つの最近の実感でもあり、同時に提言でもあります。

知らぬ間にだらだらと長く書き続けてしまいました。また気が向いたら何か書こうと思います。何か感想があればツイッターにでもコメントにでも書いていただけると幸いです。いただいたコメントには目を通していますし、基本ここでいただいた感想についてはできるだけ文章でなく直接その返事はお話したいと思っています。


それではまた、いつか。


Anna Kato
October 13th

20110528

何がアートを阻むのか

お久しぶりです。
しばらくブログの更新を滞らせてしまっていました。
何かを書くということは元来とても好きで、レポート課題はサクサクと進む方なのですが、
自発的に何かを発信するというのは難しいもので、
書きたい気分の時に書き溜めしきってしまったら、しばらくインプット期間に入ってしまいます。
しっかり活動して休憩、とまるでクマの冬眠のようですが。




さて最後の更新が誕生日の3月30日、それ以前以後震災も含め、
個人的なアクティビティとして特筆できそうなことが多くあったので、
それもまた近々まとめようと思います。
一番の変化は早稲田大学に入学したということかもしれないですが。
かくいう今は、アートフェア香港に向かうべく羽田です。
きっとこれを書きあげる頃にはもうあちらに到着しているのでしょう。
それはさておき、こうやって国内外を行ったりきたりしている頃、
特にこの春休みにイギリスにいて感じていたことが今になってやっと、
文字にする気が起こってきたので、それについて今日は書こうと思います。

お題は、「何がアートの成長を阻むのか」。
リーマンショック、ニュージーランドでの地震、エジプト革命、中東情勢不安、リビアの軍事介入、震災、原発事故、アイウェイウェイ拘束、ビンラディン殺害。
適当に思い浮かんだ大ニュースを挙げてみましたが、近年歴史が変わるような事件の多くを私たちは共有しました。
サラ・ソーントン著、「現代アートの舞台裏」を読んだ時、これほどまでにアート界はバブリーなのかと驚きましたが、
それはもう昔の話。リーマンショック以後では情勢が変わってしまったという話をよく聞くようになりました。
ヨーロッパ、特にイギリスでは予算の大規模削減にもちろん文化も含まれ、博物・美術館の入場料の無料に疑問を呈す議論が議会でされていることをTVで見ました。
フランスは予算削減こそしなかった(文化予算を増加させるという話もあります)けれど、やはり手厚いアーティストの失業・再教育手当は要検討中とのこと。
財源がなくなり、アートに支障を来たす(新人が育たない、美術館に来場者が減るetc)または発展が阻まれるという反発は容易に想像でき、また実際行われました。
けれど財源削減、アートに向かうお金が少なくなることはアートにとって、一番の障害なのでしょうか?
私はその意見には違和感を覚えます。

よく言われることですが、アートは非言語コミュニケーション、言葉を共有しなくとも伝わるものがある。
それは一理ありますが、今となればそれはアートの神話のような気がします。
「科学は国境を越える。そこに言語や文法は存在せず、存在するのは数式だけだ。(略)世界を変えるのは科学技術だと信じている。」
きちんと覚えていませんが、これはある科学誌に載っていた言葉です。
これを読んだ瞬間、アートはそれに勝てないと純粋に思ってしまいました。
そもそも作者・観者のコミュニケーションの為にアートはあるのではないと。


けれど、アートは国境を越えます。
一つの作品はそれぞれの文化と共鳴して、また違う解釈を起こさせることができる。
新国際国立美術館(大阪)でしていた「風穴 もうひとつのコンセプチュアル展」ではその西洋主義をあざ笑うかのように
アジアの作家の有名コンセプチュアルの模倣作品が展示されていましたが、いつもいつもそれは劣等感や違和感を抱かれるように受容されるものじゃない。
もちろんマザッチョ、ピカソ、セザンヌ、デュシャン、ウォーホールetcを知らずして現代アートなんて理解できない!という意見はごもっともですが、
そういう正当路線のアート鑑賞者から離れる鑑賞者(美術なんか何も興味がないのに、
たまたま美術館に入ってしまって、頭がこんがらがってしまった人とか)の感想を弾圧するべきではないと思う。
またアートはマテリアルとして存在すること、マテリアルが前面に押し出された状態で展示されることは
大仰な思想や実際に適応される前の言語で説明された難しい科学技術に比べ、優位なところ。
そして国境を越えたアートがその国々で需要され、たまにエスニックなカウンターがメインストリームに入れられる。
それがまた影響され、実践され、アートは発展する。
たくさんの面白い作家がどんどん出てきて、中堅がよいものを創り続け、大御所が安定感とパワーのある作品でアートをひっぱり続ける。
たまに美術史に社会を、思想を、科学、私情を巻き込みながら。
それこそがアートの面白味でもあり、最大の成長要因はないでしょうか。



それを考えた時、一体アートの成長を支えてるものは何か。
それは強そうで脆い、「世界交通」ではないかという結論に至りました。
日本の原発事故後、美術館に作品がこなくなり、展示会が開催できないというニュースを聞きました。
また不安定な中東情勢はこれからアートに力を入れていこうとしていたドバイのことが思いやられます。

同様に、多様性が重視される時代、中国アートの盛り上がりにより西洋中心のアートメインストリームが変わりつつある現代において、
多様性は何によって保障されているかと言えば、結局それはインターネットと世界交通です。
「お金で交通インフラは解決されるから、結局文化予算の削減が悪だ。」そういう意見もあるかもしれませんが、
交通インフラは世界の調和と有効的合意によって成立するものです。
お金に焦点を当てるなら、文化予算というより、国家予算という大きな枠組みで考えなければなりません。

そもそも、科学の発展も日進月歩で進んであるのはもちろんですが、戦時中は戦争ばかりにお金が当てられ軍事関連科学しか発展しない、
もっと言うと有能な若い科学者の卵たちが戦士として戦場に送り込まれ、命を落とすということを見逃すわけにはいきません。
それはきっとアート然りでしょう。

「アーティストになりたいなら、美術館に行け、新聞を読め、本を読め、知識をつけろと僕は言う」と有名なアニメーターの方が前ツイートしていたのが
RTで回ってきたのですが、その通りなのです。
アートにしろ、科学にしろ、ある分野はある分野の崇高な領域をもつようで、それは幻想。
「平和で安全な社会」というものが保障されてこそ、成り立っているもの。
そう考えると、おのずと最近のニュースは目を曇らせるようなことばかりに見えてくると思います。

文化は常に、高度に社会が発展・安定してこそ、文化とみなされるものが多い。
オノヨーコが「軍事業界の結束はとても強い(けれど文化はそこまでではない)」というのはそれを象徴するかのようで。

だからこれからは少しずつ、アート以外のことも発信できていければいいなと思っています。
アートは一元的にイズムとして発展してきたのに、いつの間にはそれは実際直線的発展にシフトした。
どちらがいいとかではなく、アートの特徴である他分野の吸収性が今は裏目に出て、
また非常に脆い形態で発展しているということを実感してしまった以上、
避けられない道であるとは思います。

一生芸術やりましょう。



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以上が香港に行く前に執筆したものです。
ただ、今回の香港アートフェアで少しこの文章と違った角度でものを見ることができました。
アートフェアというお金、マーケットが先行する形でのアートワールド。
それはそれでまた、アートの真理です。
お金はアートにとって第一信条でなくとも、
切っても切れない間柄にある、
そしてお金のアートに占める重要度は日本で感じれる以上に大きい。

そのことはまた追々、まとめようと思います。

それでは今回はこのへんで。

20110330

たんじょうび

少し前に帰国しました。




本当に美しいものって、見てて心にあまりに突き刺さるから、
痛いんですよね。
桜の季節はまだでしょうか。
誕生日は3月末の今日です。
桜というよりも桃の花の時期に生まれました。
近所に桜並木があるんです。
それは小学校のとなりでした。
中学に入学した日は友達と帰り道、その桜道に行って、
自分たちの晴れの日の清々しい気分と
やっと少し大人に近づけた実感を祝福したものです。


大人になるって何なんでしょうね。
こんな風に言っている間は多分大人じゃないのは分かってます。
でも、成人式があり、職につき、次第に社会の一員として動き出して、
気づけば何も知らない無知な子供達の笑顔を見て
ハッと我に返るような、
何かをなくしたような気になる日が来るのでしょうか。

今回、地震が起こった時はイギリスにいました。
テレビで朝、ニュースを見た時は嘘だと思った。
私が小学校の頃から、30年以内に和歌山には
「東南海地震がくるよ」って言われ続けたもので。


情報錯綜の嵐と、残酷すぎる現実のせいで
しばらく実感がありませんでした。
実は、今でも地震の実感なんて何もないです。
地震にも遭ってない、停電にも遭ってない、
ただ帰国が延びただけでした。

でも、こういう大きな出来事ってそれこそ
イニシエーション的な役割を果たすと思う。
日本にとって大きな変わり目というよりは
一人一人を違う次元に引き上げるような
この出来事を経験した現在を生きる全世代は
1つの共同体を形成することになるのだと思う
この苦しみは、これから生まれてくる人とは
共有できないのだろうなと。

"何かを伝える"ことは常に、
共通の経験がある方が
伝達を容易にする。
それは言葉であり、感性であり、空気であり、
空間であり、時間である。







いまのわたしには何がみえてるのでしょうね。
輝く未来か、歪んだ過去か、頼りない現在か。

今日で、19年生きました。
色々な出会いと別れがあり、希望と夢があり。
誕生日って、複雑な気持ちになるから
あまり得意でないです。
でも、一日だけ魔法がかかったみたいに
みんなにこにこしてくれて、
おめでとうって言ってくれてメールとか
メッセージがたくさん来て。
とてもしあわせな日だということは知ってます。
1週間前、23日は親友の誕生日で、
Oxfordから手紙を送ったのですが、
私の誕生日の今日に着いたようです。
こんな不思議な偶然が、
たくさん重なった日でした。

みんなありがとう

20110226

the perspective

こんにちは。
今日はベルリン-11℃。寒すぎて外に出る気も失せたのですが、せっかくなので学校終了後、
美術館に行ってきました。
ベルリンには世界遺産でもある「博物館島」という地域があって、そこに美術・博物館、教会が密集しています。

私はゴシック建築が好きなので、この辺りの一番のお気に入りはベルリン大聖堂なのですが、今日は博物館島の中にある「 Neues Museum」(新美術館)に行ってきました。
新美術館には主に古代エジプトの品々が多く収蔵されています。特筆すべきはその建築で、第二次世界大戦で廃墟となった建物をイギリス人の建築家、フリードリッヒ・アウグスト・シュテューラーが300億円ほどかけて修復したそうです。しかもその修復方法は、「元あった場所は生かしつつ欠けたところは近代のデザインによって埋める」という方式。だから室内は古く赴きのある空間とモダンなデザインが組み合わされた不思議な空間に仕上がっていました。(写真は玄関。床、天井はモダン、壁はアンティーク) たしかにお金や組み合わせの能力はかかる方法ですが、建物の保存には最適な方法。早稲田の歴史の深い文学部キャンパスが壊され、改築されるとのことで最近建物の保管について少しアンテナを張っていたのですが、こんな形で出会えるとは思いませんでした。それにしても、すごい大胆かつ斬新な方法ですね。過去と未来が共存するベルリンならではで、とてもこの建物を気に入りました。

けれど、建物のこと以上に考えさせられたのは、その展示方法です。
一言で言うと、とても「上手い」。
今まで展示が上手いと思ったのは韓国リウム美術館の陶磁器のコーナーとゲント現代美術館(pl:ブログ記事『忘却に対する抵抗』)だったのですが、今回は規模が違います。何でもそうなのですが、小さければ小さいスペース程展示がしやすい。だから大きな場所で展示しようとすると、どこかしら「微妙」なところが発生しますが、ここは隅々まで気を抜いていなかった。
10€の入場料は決して安くないですが、その10€分の気合いは十二分に見ることができました。


そもそも博物館というものはイギリスやドイツの「驚異の部屋(Kunstkammer)」と呼ばれるものからその歴史は始まります。
大航海時代に得てきた珍しいものたちを貴族が買い取り、展示した。
そんな部屋がありました。
(これが一番分かりやすかったです)
ちなみに冒頭にある、
ミュゼオロジーとは世界編集のシステムだ。だから無謀な世界理解の闘いとして始まる。まず,世界に共感すること,そしてそれを再編成する。根底にはアートとは何か? という自問をつねに残しながら。
という文章にとても心惹かれたと共に、これを読んでから少し真剣に美術・博物館の勉強をしていました。
(今はもうやめましたw)

けれど、美術館の歴史、美術館の公共性。
その影に隠れてしまって博物館というものに注目が集まりにくいのが現状です。
なぜなら、人を呼べる美術館=企画名品展ですが、博物館は常設展勝負。
しかも展示品も古いものばかりで面白みに欠けるものが多い。
だからどうやって工夫していいかも分からない。

そんな認識を覆してくれたのがこの博物館でした。まず、物を陳列するのではなく、こうして3次元的空間にて展示する。また、元あったものは元あったもののように展示する。だから建物から取ってきた壁などはこうして再現して展示。私たちは建物の中にいるかのような体験ができます。外から見ると何が何だかよく分かりませんが。

昨日は旧ナショナルギャラリーというところに行きました。そこはフリードリヒ3世が「コレクションを市民が誰でも見れるように」設立された博物館です。今で言う個人美術館が公共化したもの、というようなところでしょうか。大部分の伝統あるヨーロッパの博物館、美術館はそういった主旨で設立されたものが多いと思います。
日本でも「市民が美術や芸術に親しみを持てるように」設立されたものが多いのではいでしょうか。
けれど、この新博物館に私が感動した理由は、その時代は「終わった」ということを強く自覚していたことでした。
世代別に分けて、陳列する。
権力の誇示、市民に向かって「見せてあげてる」、古いものはすごいという意識を持たすだけならそれで十分です。
また、高いとろろに展示してあったものを博物館の中で低い場所に展示することによってコードを変える、
そんな意義もあったかもしれません。
でも今はインターネットで調べればそのイメージも簡単に出てくるし、実際に目で見るよりも
正確な情報(何でできていて、誰が何の為に作ったか)も無料で手に入れることができる。
だからこそ、今博物館にできることは体験的再現的展示だということであり、コードの書き換えはあまり意味を持たない。
これは地球の環境保全にも似たような考え方だなあ、とも思いましたが。

とにかく、空間的なものは来てみないと分からない(これは展示会にも言えることですが)。そして空間を使うことによってより、その物のパワーや昔の人がそれをどう見ていたかを伝えることが可能になる。また、面白かったのは「出土状況の再現」的展示があったことです。昔のものを昔のままではなく、「今から見つめた昔」の視点も積極的に取り入れていた。
二次元的空間から三次元的空間へ。過去を保存するのではなく、現在から過去へ繋がるパースペクティブを。
それが本当に見事でした。
様々な諸事情が考えられますが、大英博物館は物はいいけど、展示は至って普通です。
この博物館を訪れてからは、それが勿体ないなあととても感じます。

余談ですが、ヨーロッパの博物館は「人類の叡智」っていうすごい大義名目があって充実もしてるし、教育的な面でもとても上質だけど、同時にその物にはアウラ云々よりも「略奪と権力誇示の歴史」が宿って、そのいわゆる裏と表の歴史を包括してるから面白いですね。
でも、この博物館程頑張って展示していたら、そんなことも忘れそうですw

今日から2泊3日でアムステルダムへ。
またベルリンに戻ってくるのですが、アムステルダムでどんなものに出会えて、どんな経験ができるのか。
とても楽しみです。
(しかもアムスは暖かいらしい… ベルリンの-11℃から逃れられるだけで幸せ…)

それでは、また。
最後に写真を載せておきます







20110220

ものを見る目について

前の記事が嫌すぎるが故に、新しい記事を書こうと思いますw



そういえば2/18から一人で留学を始め、今日はミュンヘンなうです
今からベルリンに移動します。





そんな今回はこの1年の総復習として、こんな本を読んでいます。
結構現代アートを学び始める地点で必須な本だとは思うのですが、自分の知識の定着を測ろうと思って
あえて今まで読まずにいました。(ツイッターにて村上隆さんもおすすめされていました)
でも印象として、カテゴライズにしくいものが増えたからか、
カテゴライズ自体にも疑問に思うものが多く、日本の小さな動向を海外と同列に並べるから、
不自然な印象を受けがちでしたが、総まとめとしては最適な本でした。


そして再度思ったのはデュシャンの泉でもそうですが、革命的にいきなり何かがポッと出てくる訳でなく、
歴史があって、それをちゃんと踏まえることでイノベーションが生まれるということです。


例えば、ルネサンスもポッと出たわけでなく、「13世紀ルネサンス」という中東諸国で読まれていた
古代ギリシアローマの文献の翻訳本が逆輸入され、広まるというきっかけが事前にあって、
ヨーロッパの人々が古代の思想や様式の偉大さに気づき始め、それが活発となって、ルネサンスが花咲く。
仏教でも鎌倉仏教(親鸞とか有名な人たち)がいきなり覚醒して悟りを開いたのではなく、
平安時代から徐々にそういう傾向が現れ始め、鎌倉で大成される、という歴史がちゃんとあります。


昨日はミュンヘンのピナコテークというところに行きました。
アルテピナコテーク(ルネサンスあたりを扱う)ノイエピナコテーク(近代を扱う)モダンピナコテーク(現代美術)、それとコンテンポラリーアートムジウム(正式名称忘れましたw)。
ルネサンス以降現代までをざっと流れを追った感じですが、やはり何か歴史の繋がりのようなものを感じました。
(今回掲載する写真のほとんどはここで撮影したものです)


その「繋がり」に関連付けて、「想起力」について今日は書こうと思います
想起力はアートにとっては重要な力だと思います。


代表的な「想起」の美学は「石」。
(これは日本の須弥山石)
ヨーロッパでは中世に「絵のある石」に代表される石の模様が独自の「造形的均衡」を持つものを風景に見立て絵画的に楽しむという流行がありました。
当時芸術に大きな影響を与えたダンテの『神曲』などを石に人物などを加筆し、一つの作品として仕上がっています。
「絵のある石の系譜学」というものも密かに存在するのですが、言わずもがなこれがあのキュビズムにも繋がる無名ながらも重要な要素となるものなのです。
日本でも江戸時代の天明期あたりに1つの形から何かの姿を読みとる「見立て」というものも流行っています。



文献などはまだ読んでいませんが、私から見て、一番この「想起力、『何かが何かに見える力』」が働いているのはシュルレアリスムとコンセプチュアルかなあ、とも思うのですが。(マグリットのこれとか特に)


けれど、この「想起力」は作る側だけでなく、鑑賞者の側から見ても重要な視点だと思います。
なぜならこの「想起力」はものを見れば見る程養われるもの、すなわち自分がどれだけアートにコミットできているか、
「見る目」がついているのかついていないのか、を測る重要な指針の一つになり得るからです。


分かりやすく超飛躍した例を挙げると、随分前にクリムト(1862-1918)の「接吻」を初めてみた時、「いい!」と思いました(愚直すぎますがww)


それで「これはアールヌーボーだよ」とか言われても分からないので、「ふーん」としか言えませんでした。
けれど、彼の装飾性(単純にきらびやかだな、とかカラフルだな)とかを他の絵画と比較することで感じれるようになりました。
そしてその次に今度はシーレと似てるな、とか同時代の作家と自然に結び付けられるようになりました。
(後々、クリムトとシーレにそこまで類似点を感じなくなりましたが)
今度はキリスト教の宗教美術を見た時、そのきらびやかさがクリムトと重なるようになってきたりしました。



最後にダミアンの蝶の作品、「爆裂」にもイメージが繋がったのです。


これは、本当に私の感性であり何の論理性もありませんw
でもこうやって繋いでいくうちに、もしかしてクリムトもダミアンも宗教美術を多く見てインスピレーションを受けたのかな、とか考えるようになるのです。
これは表層的なイメージの想起ですが、今度はコンセプトなど理論的想起も自然とわきあがってくるようになります。


もちろん、先にも述べましたが私はまだまだ、見る目も想起力も素人ですが、
見れば見る程そのストックは増えるので、作品を見ることが楽しくなりました。
また、クリムトとシーレでもそうですが、始めは同時代とか色とか安直なものでしか繋がらなかったことが、どんどん世代を越えて、
その作家が影響を受けた歴史的な繋がりに目を向けれるようになります。


ここまできたら、作品鑑賞が楽しみだけでなく、「驚き」でいっぱいになるんです。


これは持論の域を越えませんが、「いいもの」を見つけたいのなら比較対象というものは必ず必要になります。
だから、美術館だけでなくレベルの高くないものを見ることは重要となります。
それでこそ、そのストックを踏みつぶすようなきらめき、すなわち「いいもの」を見つけることができるからです。
けれど、「純粋体験」的に「美術鑑賞」をしたいなら(日本で一番多い美術人口だと思うのですが)、名品展やお寺の秘宝巡りをするのがいいと思います。
単純に美しいものに感動するには、ギャラリーや冒険的な企画展に行くよりも名品展ばかり行く方が「純粋体験的ハズレ」はありません。
(また、美術館鑑賞人口第一位なのに作品を買わない、というトリックはここにあると思います)
そして、ロジカル面にもアートを楽しみたいなら、国内外、現古代を問わず美術館を中心に巡るのが一番いいと思います。
私は最近作品を買いたいと思うようになったのでギャラリー巡りと美術館巡りを美術館巡りに重きを置きながら実践していますが、
「買う楽しみ」と「観る楽しみ」はまた違うなあ、と思う日々です。


さて、今回はこのへんで。
まあまあ納得のいく記事が書けましたので、安心してベルリンに向かえますw


それではtschss!(さよならっ!)




文章の無断掲載・転用はお断りしますが、引用や掲載を行いたい場合は、ご連絡下さい。
ご感想もお待ちしております。→(@anna_kaot)

20110214

忘却に対する抵抗



わたしは人一倍、記憶について執着心が強いと思います。
以前から「記憶と忘却」についてはたくさん考察してきました。
記憶は時に自分で書き換えてしまうもので、美化したり、卑下したり。
している最中大変だったことも終わってみれば、いい思い出。
これもしんどい→うれしいへの記憶の書き換え。
「memorize」とはとても流動的な行為。
自分自身で書き換えた記憶は何かしらの無意識が働いてそうしたのだろうし
忘れるということ以上に変わってしまった記憶は忘却でもある。
ありのままを完璧に記憶するのは不可能ということ。
誰かを悼む時も、何か心に残るニュースや、嬉しい、悲しいなど激しい感情を覚えたときはいつもそう思います。

でも昨日もつぶやきましたがよく物事を忘れることは
「即ち、過去に共有できていたものが、リアルタイムで共有できなくなるということ」です。
空気とか触覚、嗅覚的なものは特に。
視覚はスクリーンキャプチャのようにメモライズされていくから、残りやすい。
だから逆に視覚以外に訴え続ける記憶というのは、とても強い印象として残りやすい。
「あの音楽を聴いたら○○を思い出す」「このシャンプー匂いは○○を思い出す」はその典型でしょう。

今回の展示では作品の周りに鏡を張り巡らせるという演出を行いました。(写真では伝わりにくいですが)
これは、どの位置で作品を見ても、人でなく、自分の気配が感じられるという工夫です。
「気配の記憶」 。そんな空間を使って三次元的に観客に働きかける演出ができるのが、展覧会の醍醐味のような気がします。

タイトルにも書いた「忘却に対する抵抗」 は敬愛するキュレーター、ハンルウルリッヒオブリストの言葉です。
たとえば絵画なら、陶芸なら買うことができる。
買って、持って帰ることができる。そうすることによって永久の記憶が保障される。
でも、展覧会は持って帰ることができない。
これが展覧会が立ち向かうべき一番大きな課題です。
だから、絵画にできないことを展示会では積極的にアプローチしていかなければならない。
単純に「感動、共感」だけではゆるい、ということです。
そう考えれば、美術館のギフトショップでポストカードに群がる人々の無意識に起こる購入理由が少し腑に落ちますね。

昨日も記憶についてツイートした時、アートに携わる方から(@denovejapanさま )
アーティストの「アーカイブ」創りが一層重要なのだと思いますよ〜。説明責任Accountabilityなんてのもその内の課題でしょうね。アーティストトークもやれば良いという物ではない。」とのご意見を頂き、一層その重要性を再認識しました。



そこで、まず手始めに、自分のustをアーカイブ、資料を添付してみようと思います。

まず学芸員になるための資格課程などはこちら。
その中で一番実戦的な授業、博物館実習について

とても参考になった展示会の作り方を実戦的に勉強できる本 美術手帖 2008年 02月号
また、言葉に詰まってしまって言えなかったオブリストの「移動型」展示会のタイトルは「cities on the move」でした。
また、オブリストとホウ・ハンルウの対談記事(とても良い)がartitにあるので興味がある方は是非ご覧下さい。
また、オブリストのインタビュー集も良書なのですが、
現在取り扱いがないということ。
しかし、その概要をまとめたサイトがあります(とても良い)
あとは彼へのインタビューに字幕をつけて下さったものがあります。

 

それから、展示会史についてはこの本、 美術手帖 2007年 12月号 一番番ざっくり分かり易く、なおかつキュレーターの仕事についても書いています。追加して、展覧会史となると、やはり一番とっつきやすいのはヴェネチアビエンナーレ、その上日本に特化したものが最近出版されて、展覧会史のイメージがつかむことができるであろう良書が出ています。ヴェネチア・ビエンナーレ―日本参加の40年
個性的なキュレーター、ヤンフートが活躍する美術館
ヤンフートの具体的な活動については椹木さんがARTitの瀬戸内美術館の批評にて、少し触れておられます。
そしてそこで私が見た展示、XANADU!について
ついでに言うと、私がとっても好きなアートセンター

金沢21世紀美術館、現代美術館の成功例
蓑豊氏の著書
金沢21世紀美術館の具体的な経済効果等
関連して、最近は十和田市現代美術館も同じように成功しているようです
でもやっぱり現代アートの美術館といえばLosのMOCA(The Museum Of Contemporary Art)ですよね。
村上隆さんも展覧会を行っています。

リンクばかりで申し訳ないですが、こんな感じでしょうか。
何かしら、知識の足しになれば幸いです。
これからしばらくはこんな感じでキュレーション展のアーカイブ記事を書きます。

よろしくお願いします

20110212

キュレーション展を終えて



お久しぶりです。
ust後、すごいアクセス数が増えて少し戸惑っておりました。
もちろん、アクセス数が増えたことは嬉しいのですが、
基本まとまって文章を書くことは、気が向かないとできません。
よって、とても更新にムラがあります。
ご了承下さい。

まず、今回のキュレーション展のデータを少しまとめました。
今日から少しずつ、これについては書いていこうと思います。
まず、0000さんのHP。
Young Curator Challenge 01 加藤杏奈

まず、キュレーションについての意気込みをtwitterにて呟いたのですが、
それをまとめていただけました。
加藤杏奈さんの初キュレーションに掛ける意気込み

また、イベントの1つとして、2日目にはustをさせていただきました。
ustアーカイブ 

そして、3日目にはイベントとしてディスカッションイベントを行いました。
twitterまとめです。
【Disscussion 01】twitterまとめ 

それからたくさんの方にご感想を書いていただきました。
ブログ形式の方のものを掲載させていただきます。
cocomichi_kyotoさんhttp://bit.ly/fhD628
SKYRYさんhttp://amba.to/i02Gtk

企画展をした3日間は毎日たくさんの方に来ていただき、
キュレーションについての議論がtwitter上で盛り上がり、
まさしく嵐のように過ぎ去る日々でした。

明日から、それぞれ、1日目から3日目まで感じたこと(特にustとイベントについて)を書いていこうと思います。
また不定期になるかもしれませんが、宜しくお願いします。



20110129

アートは必要ですか



”いい作品って何ときかれると、強い作品 と答えます。
強い作品って何ってきかれるとほそくてももろくてもちいさくても強靭な存在感のある作品と答えます。
その存在感って何ってきかれると、世界が 「その作品があることを必然として押し出している存在」とこたえます。
じゃその世界ってなにと。”

キュレーターの長谷川さんのツイッターでの発言。


考えさせられますね。
その「世界」って何なんでしょう。
私達が生きる「世界」なのか、アートワールドという意味の「世界」 なのか、それとももっと他の意味の「世界」、もっと包括的な意味での「生」としての「世界」なのか。
どちらにしろ、ここで途切れさせた長谷川さんのこの言葉の意図を考えることもなかなかスリリングで面白いです。
彼女の提示した「世界観」の一欠片を知ること。
また違う地平が広がりそうですね。


「生きてる実感がない。だからアートをする」
と語ったのは村上隆。


写真はお気に入りの写真家、小浪次郎さんの。
生きてるってイメージ、私は勝手にこんな感じです。
強烈な[生]をたまに途上国やスポーツマンに感じますが
普通に生きて、普通に学校行って、普通に生活してたら
恵まれてる日本においてあまり「生きてる」ことを実感することってないです。 
中学生の時とかよく聴いたBUMP OF CHICKENにsupernovaって曲があるのですがその冒頭は
熱が出たりすると 気付くんだ 僕には体があるって事
鼻が詰まったりすると 解るんだ 今まで呼吸をしていた事

で始まるんですけど、結局そういうことだなーなんて思ったり。
宗教の影響力が強いところだと「神様(仏様)今日の生、今日の生きれてる一日を有り難う」って感謝する習慣がありますよね。でも、今日宗教の影響がどんどん薄れてきてる。
それにしばらく前に自傷行為とかの社会現象について考えてた時期があったのですが、
自傷行為に走る理由の一つに「血を見ることによって生きてることを実感し、安心する」っていうのがあって。

なんか繋がったなあ、なんて思ったりもしました。


アートはアートのない世界では「なくてもいいもの」だと私は思っています。
でもアダムとイブみたいにそのリンゴ(=アート)の味を知ってしまったら、もう後戻りはできない。
なぜならそれが生きてることの実感や裏づけにも繋がる。
アートによって自己が更新される。
表現しないと生きていけなくなる。

そういうものなんだと。



これはリアル中学生の時の写真(笑)なのですが、
この時はアートなんか何とも思っていなかった。
でも今と比べてひたすら時間がありました。
時間があって、友達のケータイが羨ましくて
毎日公園で写真撮って、
当時中学が荒れてたこともあったのですが、
毎日怪我したり、走り回ったり、
ガラスを割ってる子とかトイレ壊してる子とかいて
そういう衝撃が毎日あって。
そう、そういう人にはきっとアートはいらないんですよね。
毎日の生活でアートから得る足りないところを補ってるから。
でもアートをこのころ知ってたら、もっと楽しかったかもしれないななんて思います。
発想が豊かになるから。


まあそれはおいといて、今私達がアートを求める理由、
無意識に(名品展とかで作品を拝みに行くのは除く)アート好きがアートを求めるのは
そういう理由なんじゃないかと思います。


心斎橋にコムデギャルソンのアートスペース、SIXがあるのですが、そこの管理人さんとお話しした時、
「同窓会行って、同級生でもアートに関わってる人たちはハツラツとしてた」って仰ってて、
まあそういうことだろうなと。

例えばバナナが好きすぎて30,000 のバナナを盛り上げて展示しちゃったアーティストがいるのですが(写真参考)

元記事 こういうこと考えてて、実行できちゃったらそりゃいつまで経っても若くいられそうですよね。
twitterの村上さん(@takashipom)のツイートも生気みなぎってます。


アートが必要たる理由は、きっと、アートを知ってしまったからです。


そういう結論で今日は終わろうと思います。



そして0000ギャラリーでの企画展は2/4からですw

20110126

旅をして、何を想うか スリランカ(2)


 旅をすることは昔からあまり好きでないです
小さい頃に少しだけ海外を転々とした経験があって、

その時経験した、感じた刺激のありすぎた出来事一つ一つがトラウマになってたりします。
イギリスでだって、辛いことがたくさんありました。
(写真はイギリスの写真です。今年は3000枚くらい写真撮ったww)

でもそれなのに何故旅をするのか。


答えは自分の思考を飛躍させる為です。

少しいかがわしい表現ですが、
私はそれに尽きると思ってます

見たことのないものを見ること

感じたことない空気を感じること
それらは全部大きなインスピレーシヨンとなる。

カントが著書、判断力批判の中で

「美と崇高」という概念に触れるのですが、彼の言う「崇高」
とは「自己更新」、いわゆる「リアリティーの更新」に不可欠な人間をより高次に高めるショックとして語られます。
また他の崇高について研究した学者たち(バーグなど)
もその例として登山などを挙げるのですが、旅から得るインスピレーションはそんな感じです。
恐怖にうち勝つ激しいショックのような類いではなくとも、
新しい価値観が生まれたり。
観光とかで色んなものを見るのは楽しいけど、結局その初めてみた「もの」を通して、自分を感化させること。
 
だから言っちゃえば、何を見るかなんか関係ないんですよね。
ただ異国の空気の下で何かを見るということは、そういうショックを起こしやすい。
もっと言えば、アート作品はそういう装置にもなり得る。
身近にあるショックになり得る。
そういう意味でもおおー!ってなるものは大好きです。
この写真、ゾウ、迫り来すぎて怖かったけど、圧倒されて、
とりあえずわけわかんなかったです。
さて、少しスリランカの話に戻すと、スリランカはインド系の黒人が多い地域なのですが、
植民地時代の名残で、プランテーションで儲けた白人たちももちろんいます。
そして、その白人が労働者として連れてきたインド南部の民族、タミール人がそのヒエラルキーの最下部。紅茶摘みは一生、紅茶摘みにしかなれない。
ひどい格差社会なんです。
だから、数年前まで内戦状態であった反政府組織「タミルの虎」は、それに反抗するような形で活動し、テロを起こした。
でも考えてみれば彼らをそんな不幸な境遇に陥れたのは、スリランカ人(シンハラ人)でもなく、またタミール人でもなく、
植民地支配を行ったイギリスなんですよね。
そう考えるといかに植民地支配はその国を潰すかが分かったような気がしました。
2代に渡る植民地支配はやっぱり文化もねじ曲げてしまうから、
「伝統的」なもの、風景を残すことができないんですよね。
だからこそ、たまにすごく気が重くなりました。
タイなんかの方がずっと行くには楽です。
日本は自ら近代化を推し進めて文化破綻して、まあいいことも悪いこともあるけど、
この国は他者の手によって文化破綻「させられた」 のですから。

この子たちが、この国の未来を一から創っていくんだなあ、これから、どうなっていくんだろうなあって思った旅でした。

まだまだ仏教とかこの国の面白いことは沢山あるのだけど、
いつかの折に引用するとして、今回のレポートはここまで。
また気が向いたら書くとします。

おしまい

20110123

旅をして、何を想うか。スリランカ(1)


こんばんは。
人をキュレーションしたりする作業ってとっても責任感が必要な作業ですね。
改めて実感する毎日です。
そしてその上、気づいたことなんですけど人って「本当に申し訳ない」って思うとき程、謝りにくかったりする。
平謝りなんて簡単なんです。
それをとても実感しました。

そういえば、休憩がてらにこの冬行ったスリランカのアートレポートをしたいと思います。
発展途上国の文化事情、少し気になっていたので。
いい機会なのでまとめます。

まず、スリランカは仏教国。
8割以上が仏教徒。お坊さんの位はとっても高い。
階級制度の色濃い世界やなあって思ったのが第一印象。
まず簡単におさらいすると、スリランカはイギリスの元植民地。
植民地から解放されてからはインドからやってきたタミール人との内戦が勃発。
数年前まで内戦がありましたが、現大統領が沈静化に成功。
首都はコロンボ。

文化事情は寺院を中心とした文化。
アートはほとんど根付いていない印象。
国立美術館は一つ。
ギャラリーは植民地時代にイギリス人が作ったと思われるものがポツポツと。
けれど、まず最初に驚いたのがこの光景。

美術館の前でアーティストが絵をかけて売っていて、意外と地元住民が見ていったり、買ったりしている。
日本でも路上で絵を売ってる人いるけど、ほとんどポストカードとかでここまでじゃないですよね。
レベルはまあまあで、結構有名作のコピーが多かったんですが、なんというかやる気に圧倒されました。
でもこういう文化があるなら、これからアートは活性化するんじゃないかなあとか思います。
需要があってこそ、ですからね。

次にこれは美術館の光景。
ミレーの「落ち葉拾い」は人気なのか、路上で絵を売ってる中にも、壁に絵を描くときでも、たくさん見かけました。
この「落ち葉拾い」の光景が働く人々にとって共感できるからなのでしょうか。

   









また、全体的な印象としてキュビズム的表現が人気、また多かったです。
キュビズム最盛期に植民地にイギリスから絵画が入ってきたからかなあ、と推測していましたが、寺院に行ってなんとなくその謎が解けたような気がします。

これはいわゆる伝統的なスリランカの絵画なのですが、とっても平面的。
古代エジプトもそうでしたが、絵画はこうやって発展していくのかなあ、と考えたり。
そう思えば平面的なキュビズムっていうのはスリランカの人達にとって馴染みやすいものだったんじゃないか、という最終的な結論にたどり着きました。 

これは小学校の壁画。やっぱりキュビズム。
この祈る人々を見たらピカソの絵のコピーというよりは、仏教的な祈りの風景と内戦の終焉を祈っているのかなとか
色々考えさせられました。
これは知り合いのスリランカ人の子供、6歳の男の子が描いた絵です。
面白いですよね。こうやって仏像や僧に囲まれた生活をしていると、子供の描く絵もこうなる。
日本ではやっぱりマンガが人気な分、マンガを描く子供がとても多いように、スリランカではこういう仏教的モチーフを描く子が多いんです。
ちょっとそう考えたらいかに社会が子供の思考に影響を与えるかが分かって、面白かったです。

まだまだ色々書きたいことばでてきたので、明日に続かそうと思います。
なんか面白くない記事wごめんなさい。

それでは。






20110122

An ounce of action is worth a ton of theory.

An ounce of action is worth a ton of theory.
1オンスの行動は、1トンの理論に値す。
ラルフ・ウォルドー・エマーソン
 お久しぶりです。
0000ギャラリーで2/4から行わせていただくキュレーション展の準備と
1/27から始まるテストの準備で倒れそうですw
でも特にキュレーションは絶対に手を抜きたくないので、頑張ってます。
ある理論に行き着いたのですが、人はキャパを越えると精神と身体が乖離するような状態になるのではないか、ということです。
カフカの変身とまでは行かずともきっと極限状態ではそれらはバラバラに自律して動きそうだなあ、と。
けれど正直今はそこまでいきません。
まだ余力があります。
だから、がんばれる。
色々本当にしないといけないこと山積。
頑張ります。

そういえば坂本龍一さんと私が来年から留学する早稲田大学文化構想学部で
佐々木敦さんが教えている「ポピュラー音楽論2」という授業の一環として、
四年生の嘉島唯さんが、坂本龍一さんにTwitter上でインタビューをしていました。
それが、とても面白い。
モノに宿るアウラ、(→アウラとは:原義は「物体から発する微妙な雰囲気」。オーラともとは同じ言葉。あまりいい脚注ではないですが→詳しく)について。
アウラはベンヤミンという哲学者が色々難しいことを述べたり、
それに基づいて現代において印刷物には、USTやニコニコ動画で流れる音楽では、はたまたCDでは、彫刻のレプリカでは、
アウラはどうなったのか?
という議論が多々起こります。

まあそれは時間がないから割愛するとして、

でも単純に、でも結構誰でも直面する難しい問題だと思ってます。


特にこれは小学生とかを例にするとわかりやすいんですが、
工作で作った作品は何を作っても世界で一つのものを作った!と思うんです。
でも見る人によってはまだまだその作品は力がないなあー、とか
どっかで見たことあるなあ、とか思って作り手ほどの力や満足感がそのまま伝わる訳ではない。
例えばヤクルトの容器を使っていて、どんだけ素晴らしい彫刻になっても、
「ヤクルト」って文字が見えたら興ざめしてしまう。
そんな事態も容易に考えられます。
「アウラ」 の宿り方は見る人によって、全然違ってくる。
これは何かを作って、作り手が自己満足で終わって、周りはそのテンションについていけない
っていう文化祭とかでよく起こる現象でもありますよね。(…苦い思い出w)


昔は職人が丹誠込めて作る、圧倒的な技術でアウラが宿ることができた。
でも今、誰でも発信できる時代で、特に音楽なんかはyoutubeとかで聞けて、
そんなにウワー!ってなるのはライブとかに行かない限り感じるのは難しいですよね。
それに、昔はアウラが宿りまくっていた彫刻をインターネットで画像で見るのはまた違う。
これについても、坂本龍一はとても面白いことを言っていて、
ほとんどの絵画の場合、オリジナルと複製は明白ですよね。現代の音楽の場合、事情はもっと複雑。ほとんどぼくたちが受け取る音楽は複製だものね。それでもある「ライブ信仰」。
うーん、考えさせられます。


結局は「信仰」っていう意味で鑑賞者と作家が繋がってた頃はよかったけど、
今はそれもない(→よく言われる議論)
そこで、「共感」で繋がろうとしたら、「共感」を越えられない(→よく最近の若者は…って議論で出ますよね でもこれって日本だけのことかもしれないとは思うんですが)
ある意味、そうして社会を反映するような局面に芸術は立たされている。


そんなこんなを思った議論でした。
ハッシュタグ#popuonで見ることができます。

最後に好評だったので、トマの抽象画をまた貼っておきます^^















取り急ぎ更新でしたw
おやすみなさい。



20110116

いいものについてのこうさつ

文字ばっかりが味気ないから写真を載せようと思うのですが、なかなかいいのがないです
だから楽しそうな写真をとりあえず、貼りますw
2009年イギリス。一昨年の写真。語学学校卒業式。
ドイツ人・フランス人・日本人。
違う文化を持った人達と話すとインスピレーションがどんどん湧いてくる。
素敵。


今日はいいものについての考察。
この前ツイッターでいわゆる「いいもの」っていうのが理解できないと言われ、ハッとしました。
たしかに私もアートを勉強し始めた時は何故それがいいのか全く理解できなかった。
好きな絵は唯一、ムンクの「夏の夜/声」だけでした。
この作品にはグッと引き込まれるものがあって、ムンク展で初めてみたときはしばらくそこから離れられなかったものです。
そういった実際の体験があればこれがいい!と言いやすいのですが、星の数ほどある作品から選別された美術館で展示されている作品を見ても全く惹き付けられるものがなく、何がよくてこれを選ぶのだろうと思うことは多々。
しかし、美術の歴史やアートの理論を学び、実際に意識してアートを見ていくことで、ピンとくるものはどんどん増えてきました。
例えば最近のものでは最近ターナー賞を受賞したトマ・アブツの抽象画。


正直この画像を見たときはかなり興奮しました。
今までこんなに表現の根源に迫った抽象画はあったでしょうか。
凝視すればする程、味のある作品で、また抽象画は大きいものが主流ですが、彼女の作品はこぢんまりしている。
小さいながらも生命を凝縮したような表現。

とか言っても、アートに興味のない人からすれば全く説得力がないんですよね。
そのものがいいか悪いかは正直、「数を見れば」分かるようになると思っています。
0000の谷口さんに「見る目をつけたい」と相談したところ、
「何か作品を買って、毎日意識しないでもいいから見ることが大切」とのアドバイスをいただきました。
そうすることによっていらない表現とかも見えてくると。
そこで家にあった絵画を見える位置に飾り、実践してみたのですが、たしかに効果はあったような気がします。
同時並行して勉強や美術館巡りも多くしたので、どれが一番効果があった、とは言い難いのですが、
ある日突然自分の「見る目」ができました。

こうしてアート界隈の人は自分なりの規準を作っていくのだと思います。
ただ、「見てれば分かるようになるよー」って言うのはあまりにも無責任ですよね。
そこで、前ふりは長すぎましたが、少しでも参考になるようにいくつかの例を挙げてみたいと思います。

まず、私が考えるいいものの条件は(何度も言いますが一概には言えません。色んな形態・主張のアートがあるので。)
「美術史的更新」「優れた技術」「他人とは決定的に違う世界観」「そのもの自身の存在感
があるような気がします。
美術史的更新はいわゆるピカソのキュビズムやデュシャンの泉など。
一見すると美術からかけ離れているかのように見える、あまり美しさを感じられないもの。
コンセプトで勝負をかけてくるようなものです。

優れた技術はダヴィンチのモナ・リザやベルニーニのまるで人体かと思うような彫刻技術など。

他人とは決定的に違う世界観は上に上げたトマアブツや村上隆などを挙げられます。

最後にそのもの自体の存在感は大きければ大きいほどインパクトはあるという傾向(バーネットニューマンの抽象画など)はありますが、圧倒されるようなもの。
おおよそこんな感じでしょうか。


それでもピンとこない方はきっといらっしゃると思うので、著名な方々がおっしゃっていたコメントの抜粋をしたいと思います。
「現代アートの舞台裏」という本からの抜粋です。

Q)傑作の条件とは?

「本質的にその作品に注意を払う人々に対して、尽きることのない価値を与えることが証明されたもの。
『おれたちは5年前、あるいは50年前に作られたものだが、そんなこととは関係なく、現在形のままだ』と。」
byロバート・ストー 2009ヴェネチアビエンナーレディレクター


「作品が見る者にあれこれ語りかけるのではなく、鑑賞者が作品を見ることができること。
あらゆる解釈可能という訳ではなく、固定的な意味に限定されないという意味で。」
レベッカウォレン アーティスト


「アートはどれも時間との新たな関係を味わわせてくれるもの」
マーゴット・ヘラー サウスロンドンギャラリー ディレクター


そんな感じで、今日は終わります。
何かスッキリしていただけたら幸いです。