20110220

ものを見る目について

前の記事が嫌すぎるが故に、新しい記事を書こうと思いますw



そういえば2/18から一人で留学を始め、今日はミュンヘンなうです
今からベルリンに移動します。





そんな今回はこの1年の総復習として、こんな本を読んでいます。
結構現代アートを学び始める地点で必須な本だとは思うのですが、自分の知識の定着を測ろうと思って
あえて今まで読まずにいました。(ツイッターにて村上隆さんもおすすめされていました)
でも印象として、カテゴライズにしくいものが増えたからか、
カテゴライズ自体にも疑問に思うものが多く、日本の小さな動向を海外と同列に並べるから、
不自然な印象を受けがちでしたが、総まとめとしては最適な本でした。


そして再度思ったのはデュシャンの泉でもそうですが、革命的にいきなり何かがポッと出てくる訳でなく、
歴史があって、それをちゃんと踏まえることでイノベーションが生まれるということです。


例えば、ルネサンスもポッと出たわけでなく、「13世紀ルネサンス」という中東諸国で読まれていた
古代ギリシアローマの文献の翻訳本が逆輸入され、広まるというきっかけが事前にあって、
ヨーロッパの人々が古代の思想や様式の偉大さに気づき始め、それが活発となって、ルネサンスが花咲く。
仏教でも鎌倉仏教(親鸞とか有名な人たち)がいきなり覚醒して悟りを開いたのではなく、
平安時代から徐々にそういう傾向が現れ始め、鎌倉で大成される、という歴史がちゃんとあります。


昨日はミュンヘンのピナコテークというところに行きました。
アルテピナコテーク(ルネサンスあたりを扱う)ノイエピナコテーク(近代を扱う)モダンピナコテーク(現代美術)、それとコンテンポラリーアートムジウム(正式名称忘れましたw)。
ルネサンス以降現代までをざっと流れを追った感じですが、やはり何か歴史の繋がりのようなものを感じました。
(今回掲載する写真のほとんどはここで撮影したものです)


その「繋がり」に関連付けて、「想起力」について今日は書こうと思います
想起力はアートにとっては重要な力だと思います。


代表的な「想起」の美学は「石」。
(これは日本の須弥山石)
ヨーロッパでは中世に「絵のある石」に代表される石の模様が独自の「造形的均衡」を持つものを風景に見立て絵画的に楽しむという流行がありました。
当時芸術に大きな影響を与えたダンテの『神曲』などを石に人物などを加筆し、一つの作品として仕上がっています。
「絵のある石の系譜学」というものも密かに存在するのですが、言わずもがなこれがあのキュビズムにも繋がる無名ながらも重要な要素となるものなのです。
日本でも江戸時代の天明期あたりに1つの形から何かの姿を読みとる「見立て」というものも流行っています。



文献などはまだ読んでいませんが、私から見て、一番この「想起力、『何かが何かに見える力』」が働いているのはシュルレアリスムとコンセプチュアルかなあ、とも思うのですが。(マグリットのこれとか特に)


けれど、この「想起力」は作る側だけでなく、鑑賞者の側から見ても重要な視点だと思います。
なぜならこの「想起力」はものを見れば見る程養われるもの、すなわち自分がどれだけアートにコミットできているか、
「見る目」がついているのかついていないのか、を測る重要な指針の一つになり得るからです。


分かりやすく超飛躍した例を挙げると、随分前にクリムト(1862-1918)の「接吻」を初めてみた時、「いい!」と思いました(愚直すぎますがww)


それで「これはアールヌーボーだよ」とか言われても分からないので、「ふーん」としか言えませんでした。
けれど、彼の装飾性(単純にきらびやかだな、とかカラフルだな)とかを他の絵画と比較することで感じれるようになりました。
そしてその次に今度はシーレと似てるな、とか同時代の作家と自然に結び付けられるようになりました。
(後々、クリムトとシーレにそこまで類似点を感じなくなりましたが)
今度はキリスト教の宗教美術を見た時、そのきらびやかさがクリムトと重なるようになってきたりしました。



最後にダミアンの蝶の作品、「爆裂」にもイメージが繋がったのです。


これは、本当に私の感性であり何の論理性もありませんw
でもこうやって繋いでいくうちに、もしかしてクリムトもダミアンも宗教美術を多く見てインスピレーションを受けたのかな、とか考えるようになるのです。
これは表層的なイメージの想起ですが、今度はコンセプトなど理論的想起も自然とわきあがってくるようになります。


もちろん、先にも述べましたが私はまだまだ、見る目も想起力も素人ですが、
見れば見る程そのストックは増えるので、作品を見ることが楽しくなりました。
また、クリムトとシーレでもそうですが、始めは同時代とか色とか安直なものでしか繋がらなかったことが、どんどん世代を越えて、
その作家が影響を受けた歴史的な繋がりに目を向けれるようになります。


ここまできたら、作品鑑賞が楽しみだけでなく、「驚き」でいっぱいになるんです。


これは持論の域を越えませんが、「いいもの」を見つけたいのなら比較対象というものは必ず必要になります。
だから、美術館だけでなくレベルの高くないものを見ることは重要となります。
それでこそ、そのストックを踏みつぶすようなきらめき、すなわち「いいもの」を見つけることができるからです。
けれど、「純粋体験」的に「美術鑑賞」をしたいなら(日本で一番多い美術人口だと思うのですが)、名品展やお寺の秘宝巡りをするのがいいと思います。
単純に美しいものに感動するには、ギャラリーや冒険的な企画展に行くよりも名品展ばかり行く方が「純粋体験的ハズレ」はありません。
(また、美術館鑑賞人口第一位なのに作品を買わない、というトリックはここにあると思います)
そして、ロジカル面にもアートを楽しみたいなら、国内外、現古代を問わず美術館を中心に巡るのが一番いいと思います。
私は最近作品を買いたいと思うようになったのでギャラリー巡りと美術館巡りを美術館巡りに重きを置きながら実践していますが、
「買う楽しみ」と「観る楽しみ」はまた違うなあ、と思う日々です。


さて、今回はこのへんで。
まあまあ納得のいく記事が書けましたので、安心してベルリンに向かえますw


それではtschss!(さよならっ!)




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