20140110

想像力と塀


居住地を移し早4ヶ月が経ち、知らぬ間に年が明けました。
年越しはカッパドキアのホテルの窓から控えめな花火を見ながら過ごしました。
波乱と挑戦に満ちるであろう一年の幕開けは、今までのどの大晦日よりも地味で簡素なものでした。



移動に移動を重ねた2013年は多くの発見と素晴らしい出会いがあり、刺激的な日々を過ごすことができました。
一度でも世界の頂点に立った国々、イギリス、フランス、ベルギー、ポルトガル、スペイン。
これらの国々を比べてみると、その栄光が完全に過去のものになってしまった国もあれば、まだ当時の影響力を維持している国もあります。


そして、例えば、私たちが「欧米」と言った時無意識に含まれる文化は、やはりそのヨーロッパ(アメリカ)の歴史における光と影が大いに影響してきていることがわかりました。
あくまで個人的な感覚ですが、日本で一般的に言われる「欧米」とは、アメリカ(の大都市)、イギリス、フランス、(ドイツ)のことなのではないでしょうか。
それは決してネガティブなことではなく、この混乱の時代にあってもヨーロッパ大陸の混沌を勝ち抜いてきている国々へのふさわしい称号のようにも思います。

しかし、その「欧米」の「欧」の字の中にも、様々な文化や感情が入り混じっているのが現状であり、当たり前とも言えるそのリアルを実感できたことが収穫です。

その顕著な例がポルトガルで、そこには大変興味深い文化や歴史がありました。
それはまた後に、時間があれば。

こうして知的探究心を随分と満たすことができた一年でしたが、その中では新たな疑問も生まれました。

ヨーロッパを中心に動いていると、日本とは違うベクトルの情報を眼にすることが多くなります。
それは、アフリカの現状、世界の人権問題、中東やロシアの情報、アメリカについての少し偏った報道などです。
その中でも私が興味を持ったのは、「無視していないのに、届かない声」についてでした。
報道があって、それを知っているのに日々の忙しさのうちに忘れてしまう声はそれにはあたりません。
「無視していないのに、届かない声」とは、どこかで誰かが助けを求めてるにも関わらず
それが何らかの理由でかすかにしか届かず、またその問題も私たちの「想像外の」ものとなっているようなものです。
例えば内戦後のシエラレオネ、リベリア、ハイチなどどこにあるピンと来ない貧困国の現状や、ユーロ危機で引き起こされたギリシャの社会的弱者の状況などがそれにあたります。

「『調べる』=(日本語の)ネットや書籍」で検索がかからない問題だけでなく、少し深く調べないと出てこない情報などは「あることさえも」想定するのが難しくなりました。
今、全ての情報がネットにあり、ネットにないことは嘘であるような迷信を抱いてしまっているのかもしれません。
しかし、世界でネットの整っている状況はほんの一部であり、識字率も考慮すべき問題です。

そういった現状を自分の目で見ることが大事だとしても、治安が安定していない地帯に乗り込むことはあまり賢い方法とは言えません。
それ以前に、私たちが渡航できるのは日本と国交が確立されているところなのです。

あまりに情報に溢れてしまった私たちは、その過剰さに飽きてしまって
どこも変わらないような風景を見、間延びした日常を送りがちですが、最近の発見は、世界を自分の物差しで測って見くびってはいけないということをまた思い出させてくれました。

本を読む、旅をする、映画を見る、展覧会に行く。
そうして私たちは想像力を養っているつもりでも、それは安全という名の下に囲われたものかもしれないし、想像力を囲っている塀の存在に気づくことは本当に難しい。

今まで良さがわからなかった有名な作品は、美術史を学ぶとその良さを感じることができました。
しかし、今、次のフェーズとしてぶつかった疑問は、それは私が主体として感じたよさなのか、歴史のレールがそれをよいと思う風に一方向に誘導したために、深く考えずさもそれが自然かのようにに受け入れてしまったよさなのか、というものです。
そういった価値に関わる分野限らず、私たちの想像力は規定され、消耗していることを感じます。
果たして本当に想像力は無限なのでしょうか。


「美しさを忘れてしまった人は、世界の果てまで旅しなければなりません」 
というよく知られた本の冒頭の引用は、ある種真実なのかもしれません。

話を戻すとさて、今までの想像力の外にある情報を知ってどうするのか。
それに衝撃を受け、国々を支援するという直接的な答えも一つではありますが、それはもう安直な気もします。
私の中でも知ってしまった責任は重く響きますが、まだどういう答えでそれに応えられるかは未知数です。
(その一つの知った責任を果たすべく、久しぶりの更新をしています。)
そう思う一方、この後味の悪いもやもやは、ポジティブなものと捉えています。
ポストモダンの混沌とした諦めから抜けだす突破口を見つけなければならない
私たちの世代は、まず世界をフラットにみせる見えない塀に気づかなければ進まない。

それを自戒にしつつ、今年も邁進していきたいと思います。


おわりに
どちらも大変遅くなりましたが、報告を二つほど。
8月15日に東京、恵比寿のbar MUDAIさんにて、CASがプレゼンをさせていただきました。
パブリックなところでプレゼンテーションを行うのは二回目の試みでしたが、
これからもまた続けていければと思います。
http://www.contemporaryartstudies.com


7月14日ー15日、京都アンテナメディアで三回目のキュレーション展を行いました。
近年ますます曖昧になる「キュレーション」という言葉を、空間の機能と照らし合わせ考察を試みました。
悪天候の中多くの方が来て下さり、熱い議論をすることができました。
http://www.kansaiartbeat.com/event/2013/DE57


この二企画を通してお世話になった皆様、お越し下さった皆様本当にありがとうございました。
この場をもってお礼申し上げます。