20130328

デュシャンのおもしろい話とネルソンのおもしろくない話


ロンドンはこのところ雪がちらつき、皆春はどこいったの!と嘆いています…。かくいう私も、日本の桜の写真をみて、ここにいると考えられない春の日差しを遠い目をしながら待っています。

serpentine gallery Fischli/Weiss  Rock on Top of Another Rock  8 March 2013 - 6 March 2014

前回まではシリーズで物語の構造について、3度続けて書いてきたのですが、今回はそれについて発展させて考えていければと思います。
タイトルはデュシャンのおもしろい話とネルソンのおもしろくない話。
Barbican Centreで行われたデュシャンの展示と、Matt's Galleryで行われたネルソンの展示を比較したいと思います。

London City Universityは、「Barbican Centre(バービカンセンター、Centreはイギリス英語 Centerと同じ意味)」というかなり大きな芸術複合施設を持っています。展覧会会場だけでなくシアターやコンサートホールも完備していて、カフェレストランは安くておいしく、木曜日は夜10時まで開いています。ご飯を食べる約束ついでに展覧会も見れるのでなかなか優秀なところです。以前は石上純也さんの展示や、雨の中を歩くとセンサーで感知して雨粒が人をよける作品なdが展示されていました。
今回のデュシャン展はDancing around Duchampというタイトルで、ビジュアルアートだけでなく音楽、ダンス、演劇、映画とコラボレーションさせるというものでした。(冒頭の映像がとてもいいです)

ビジュアルアートの部分は交友があったジョンケージ、クリス・カンニガム、ラウシェンバーグ、ジャスパージョーンズが紹介されていました。
2年前、ヘイワードギャラリーでジョンケージ展にて、ケージの講義の録音を聞いたことがあったのですが、そこではまず「自分はデュシャンから最も大きな影響を受けた」と語られていて、この関連性には納得のいくものでした。また、私が訪れた際は運よく会場でコンサートが開かれていて、ケージの「Ryoanji(龍安寺)」が演奏されていました。(現在ガゴシアンギャラリーではラウシェンバーグの作品が展示されています。)
「現代アートの父」とも言われ、現在も多くのアーティストに影響を与えてるデュシャン。
私の経験からいっても、現代アートの講義でも最初に教えられる作品は「泉」でした。
しかし、今まで「デュシャン展」に幾度か足を運んだり、常設展にあるデュシャンを何度も見てきたのですが、彼の作品はビジュアル的にそんなに面白くない、というのが私の意見です。
見飽きたというのも一因として考えられるし、コンテクストが複雑すぎるというのも考えられますが、今回、その要因について考えて見たいとおもいます。
バービカンの映像でもいわれていたように、デュシャンはそれまでの伝統を破り新しさを作った人です。バービカンの展示では、「artとlife」の折衷というようなセクションがあったり、彼が生み出したハイブリッドさについて語られています。
彼の作品はそれまでのアートの文脈や社会に呼応するように作られ、天才だったが故に理論も複雑で難解です。大ガラスのメモなどは未だに解明されていないとも聞いたこともあります。

文脈がしっかりしていて、独自の理論がある、そして謎が多い。
デュシャンの作品の傾向は要約するとこんな感じなのではないでしょうか。
そして、この条件が揃うと何ができるか。
答えは、論文が書きたくなる……………です。
そこで、私が割とストンと納得できたのは、デュシャンはバービカンが提示したような諸ジャンルにも影響を与え、近くなっただけではなく、アカデミズムにも近いということです。
文脈化して、書籍を出し、積み上げていくのは今でもアカデミズムが担っています。
美術史もアカデミズムなのだから、デュシャンが重要視されるのはごく自然なことです。
だから、デュシャンはアカデミズムにとって、「おもしろい話」となるのです。

ここで、少し気分を変えてネルソンの話をしたいと思います。
タイトルで「おもしろくない」と切り捨ててしまったのですが、ここまで来るとその意図を分かっていただけると思いますが、いかがでしょう。
例えば、ネルソンの経歴を省略するために、第54回ベネチアビエンナーレの感想ブログをリンクします。彼の作品への感想は最後に「単に視覚的効果のみの雰囲気重視のパビリオンに終わってしまっていた。」と締めくくっています。
彼はイギリス出身のアーティストでインスタレーションを主に制作します。そして、彼の作品は保存されないもの(サイトスペシフィック)なものがほとんどを占めます。イギリスのアートの最高峰ターナー賞を2001年に受賞。tate britainには彼の迷路の作品「The Coral Reef」が常設されています。

彼の作品を要約すると、「得も言われぬような、おどろおどろしい」という文章に尽きると思います。
今回の展示のコンセプトも、今までの彼の展示を総括して、「存在すること」を主眼に置きながら「存在と不在」を混ぜ合わせる、というような何とも曖昧なものでした。

さて、このような作品をいかにしてアカデミズムの文脈付けることができるのでしょうか。
彼の作品は、何を言ってもなんとなく的外れな、「それは個人の見解による」、「証拠不足」などと却下され、挙句100年ほど後に「当時の社会状況と呼応した」などと言われそうな作品です。
すなわち、アカデミズム的に「おもしろくない」作品なのです。
そして、それは同時に何を意味するか。
「言葉で説明すればするほど面白くなくなる」、「百聞は一見に如かずです」と言いたくなる、そういう結論です。

多くの哲学者が指摘するように、私たちは見ているものを正確に言葉で言い表すことは不可能です。言語コミュニケーションは、代替えのテクニックです。
それを、言語に落とし「学問」という形式を作り出し、文脈をつける努力を、人間は古くから行ってきました。
これもよく言われることですが、「歴史」は「書かれたもの」の積み重ねです。

しかし、分類をできないけどなにか気になるから残っているもの(オーパーツ)、徒労だと言われながらも有名なもの(フィンガネス・ウェイクなど)どうしても年代で分類することしかできなかったもの(エゴン・シーレなど)はたしかに存在します。そうして、今の現代アートの多くは、こうした物語をつけにくい、(アカデミズム的に)「おもしろくない」状況にあります。


アカデミズムとアートの密接な関わり。当たり前の前提として私たちはそれを知っていますが、再考してみるとたしかに!!!!となることが多いのではないでしょうか。
そして、そういったものからはみ出てしまうものを「おもしろくない」と切り捨てることはできるのでしょうか。アカデミズムや歴史への接近は、作家側から積極的に行うべきものなのでしょうか。それとも、無視をしていいのでしょうか。または、アカデミズムの担ってきた役割をマーケットが乗っ取ろうとしているのでしょうか。
実際ブログに投稿する際も、ネルソンのような作家には難しさを感じます。
けれど、私はこれについて独自の見解があるのですが、それについてはまた機会があれば書こうと思います。
今日はこれまで。また私をどこかで見つけたら、みなさんの意見を聞かせて下さい。

おわり。

参考url
haywardのjohn cage
http://www.gramophone.co.uk/features/gallery/john-cage-exhibition-opens-at-hayward-gallery

gagosian ラウシェンバーグ
http://www.gagosian.com/exhibitions/robert-rauschenberg--february-16-2013

Matt's gallery
http://www.mattsgallery.org/
ネルソンと同時開催のスーザンヒラーもおすすめです

20130319

垂直、平行、または円 物語の拡がり③


A Bigger Splash: Painting after Performance(Tate Modern,11/14-4/1)

前々回から、展評を交えながら主題の設定、物語の作り方について考察を行ってきました。
三部作の最終章です。
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平行型の物語と垂直型の物語、それぞれに面白さや深みがある両者ですが、
線を描いみてもわかるように、両者は平行または垂直の地平を持って拡張し続けます。
しかし、ネガティブな見方をすると、その物語は縦横に広がっていくだけで、
次のステップへの目覚めは鑑賞者に委ねるしかありません。
それではどうすればいいのか。
答えは円型の物語です。

円型の物語とは、その名の通り、一つのトピックについて
完結した物語を作るということです。
例えば、99年から2000年に以降する時、世界各国でパニックが起こりました。
細かく見ると様々なバリエーションがあり、それぞれ違った問題が起こったはずですが、
それを「00年パニック」と包括してしまえば、円型の物語が完成します。

円型が垂直型や平行型と異なるところは、まず物語のラベルに着目させるということかもしれません。

美術史では、モダニズム期の歴史は直線的に語るべきではない、と言われることがあります。
様々なグループ(ダダ、未来派など)が乱立した時期は互いにそれらが影響し合ったのだから、と。

(写真はTate Modernの壁です)

寄り道はこれくらいにして、Tate Modernで行われた展示を見ながら、
そういったことについて考えていければと思います。

A Bigger Splashはイギリスを代表する作家、デビットホックニーの作品のタイトル/言葉から来ています。

副題はPainting after Performanceで、イントロダクションでは、1950年以降の
「パフォーマンスとペインティングの関連性」を探求し、
「パフォーマンスがいかに現代のペインティングの可能性を拡張したか」を探ると書かれています。
こんなタイトルをつけられるとまず思い浮かぶポロックが、
ホックニーの作品との対比と共に始まり、
次の部屋では今や世界の定番となった具体とイヴクライン。
ウイーンアクティビズム、ブラジルのオイティシカ、草間弥生などアジアのアーティスト、
1970年代から始まった「変身」系の作品と続きます。
以降はアーティスト個人に焦点を当て、
Edward Krasinski,Marc Camille Chaimowicz,

Joan Jonas,Guy de Ciuntet,Karen Kilmnik,

IRWIN,Jutta Koether, EiArakawa(実験工房)、Lucy McKenzie

が展示されています。

感想としては、最初の流れを追うパートはパフォーマンスが先行し、
ペインティングの定義が拡張、消滅していく様子が丁寧に追われていたのですが、
個人に焦点を当て始めると、最初の主題がブレてきているような気がしました。
スペースが膨大すぎる割に物語が簡単にまとまってしまったのかなという印象です。

しかし、そのメインの物語より、特筆すべきはキャプションの書き方でした。
一般的に作品名またはアーティスト名が先に書かれますが、
今回のこの展示では、先に国名が書かれていたのです。
作家の選択からも分かるように、作品は世界中から集められ、
それは、「パフォマンスとペインティングの関連性の追求」が
「世界共通のアートの主題である」という前提でキュレーションされていました。

キャプションの初めに国名をつける。
そういった小さなことでも、世界的な視野を持ってキュレーションされたことが示唆できる。
小さな工夫で主題の核心を見せる技術には感服しました。

そして、この包括的な視野。
これは円型の物語です。

円型の物語の構造に話を戻しましょう。
包括する、客観的な視点で完結した一つの物語を作るとどうなるか。
それは、その物語と共に、その物語が立っている地点を示すことができます。
その物語が出現するまではバラバラだった作品が、一つの作品群になり、
一つの作品だけを見たら分かりにくかった、その作品が担う時代性や役割を
束ねることによってクリアにするのです。

そうするとどうなるのか。
まず、その物語の理解を推進することができます。
これは垂直、平行の物語と同じです。
そして、その物語を仮にでも「完」をつけることによって、
次のステップを開きます。

これが、円型の物語の持つ大きな特性です。
今自分が記憶喪失になったとすると、
自分のアイデンティティが分からず、自分の名前から探すことになるでしょう。
人間の記憶は曖昧で、時に自分の過去に疑問を持つことがありますが、
展覧会の場合は違う。
展覧会が終わっても、カタログとなり、一つの過去の仮説は保存されます。
他人が作ったものであっても、それを仮に自分が吸収したものとして
その次を探すことができる。

そして、円型の物語はキュレーションが最も作り易い物語でもあります。
ただ文脈を作るということではなく、完結した一を作る。

しかし、円型の物語は作ればそこで解決するものでしょうか。
それも納得のいく回答ではありません。
私は、円型の物語は他の円と共鳴してこそ価値が出てくるものだと思います。
美術史を直線に語るのはいかがなものか、という問題提起にも繋がるように、
円型の物語は時に接近し、時に離れることでより完結した円に近付いていくような気がします。
イメージとしてそれは、シャボン玉に似ています。


ドクメンタは、小さな垂直の物語を集め、一つの円型の物語を作りました。
ドクメンタが開催している間、各国のギャラリーでは出展作家の展示が多く行われ、
カタログや手軽なアーティストを紹介するリーフレットは様々な国で販売されています。

ドクメンタという大きな円はその後5年間のアートの指針を示すと言われています。
しかし、考えてみれば、「その後5年間のアートの指針を示す」との了解が、
ドクメンタを影響力のあるものに仕立てている気がします。
ほとんどの展示は、鑑賞者に影響を与えても
他の円に影響を与えることはないのですから。


以上、物語の構造について思ったことを三回に分けて書いてみました。
あくまでベーシックな意見ですが、こののちも展示の感想と合わせて
考察を深めていければと思います。

それでは、また近日中に。

20130318

垂直、平行、または円 物語の拡がり②



予想していたより早く更新できるようになりました。
最近は会田誠展が話題になっていますね。
性と暴力の表現のボーダーライン。
先日私が訪れたwithecube bermondseyではEddie Peakeがパフォーマンスを行っていました。
ロンドン動物園をイメージしたという囲い状の建物の中に服を着ていない男女が
生演奏に合わせて楽しそうに踊ったりくっついていたりしていました。
サイトには彼のパフォーマンスがあると載っていないので、
何も知らずに出くわした私は本当にびっくりして
よくも悪くも露呈する表現に対する認識のギャップを感じました。
Eddie Peakeのインタビュー映像。
TATEが制作しています。

余談はここまでで、本題に入りたいと思います。
今回取り上げるのはCarroll/Fletcherで行われたNatascha Sadr Haghighian。
Natascha Sadr Haghighianはベルリンを拠点に活動するアーティストで、ドクメンタにも参加していました。

まず最初にこの展示の感想を一言でまとめると、「難解」。
投稿のため随分リサーチを行いましたが、未だに彼女の取り上げた問題を消化しきれていないような気がしてなりません。
彼女は2011年にはBarcelona Museum of Contemporary Art(MACBA)で大規模な個展も行いました。
友人曰くその展示は素晴らしく、今回の展示もそのイメージなしには見ることができなかったと言います。

しかし、彼女の経歴の多くは謎に包まれたままです。
試しにCarroll/Fletcherで、彼女の経歴のページを見てみましょう。
そこには彼女のプロフィールは”www.bioswop.net”にて見ることができると書かれています。
そのサイトは彼女が2004年に「アート関係者がプロフィールを埋めるために、各々の経歴を交換し借りる」目的のために設立されたものという説明もされています。
bioswopでは更に詳しい情報を得ることができました。
簡単にまとめると彼女がそのサイトの役割として望んでいることは
「市場の交換価値を構成している」要素としての履歴書の価値を下げる」ことにあると分かりました。

このサイトのインフォメーションを見ただけでも推察できるように、彼女の主題は
社会における大きな権威やしきたりに疑問を投げかけ、問い続けることなのです。
もちろんその中には排他的で特権的なアート業界も含まれます。


展示の最初は部屋はこの作品から始まりました。
旅行用のキャスター付きトランクの持ち手がロンドンで見慣れたBoxtonというミネナルウォーターのペットボトルの上に乗っています。
トランクの中には電動機が入っており、一定のスピードでペットボトルを潰すのです。
そのすぐ側にはマイクが設置されており、潰される音が拡張されその作品の他に何もない響きます。
一目見ただけで何かの寓意と分かるその作品の詳細は、次の部屋へと続くのです。

その部屋にはいくつかのロンドンにおける「Boxton」受容に関する作品が"resurch display"とされ、展示されていました。
まずは飛行機がどこからどこへ飛ぶのか、その軌跡が書かれた地図です。それは1992年にEUの航空産業規約解除が如何なるインパクトを与えたのかを見てとることができます。
次にBoxtonの所有権についての会議合意書、そして遺影のように設置された公共の冷水機で水を飲む人たちの写真。

最後に床には20本の中に水滴があるBoxtonのペットボトルが20本置かれています。
この作品群はde Pasoと名付けられMACBAでの個展のタイトルにもなった、彼女の最近の活動を代表するような作品です。
綿密なリサーチに基づいて表現された展示。ペットボトルが潰される音はそれらの調査結果全てを凝縮し、隣のこの部屋にまで響いてきます。


地上階最後の部屋にあったのはunternehmen:Bermuda(2000)です。

これは彼女がArs Viva Awardの審査員にお願いして、その審議場所を道路の三角地帯にあるバス停へと変更したのです。
その三角地帯は病院、自然博物館、美術館をそれぞれの頂点に持つ場所で、彼女はアートと科学の衝突地点であり限界地点を示すためにその場を選んだと説明されています。
そこで当惑する審査員と楽しそうにプレゼンを行うアーティスト。
その模様は秘密裏に撮影され、作品となりました。

ドクメンタで展示されていた作品は、傾斜に第二次世界大戦のかれきを集め階段を作り、
録音された世界各国の言葉で動物の鳴き声をまねる音声が流れていました。
最後ははしごを登り、ドクメンタの会場を出ることができます。


示唆的で暗示的な作品。
Ai WeiWeiと同じように「社会派」として知られる彼女ですが、問題への寄り添い方は違っています。
彼女の作品は、もしキャプションが先にあれば、それをまず読んでしまったと思います。
ギャラリーでは入った瞬間にBoxtonを潰すスーツケースの作品があったので、
まずビジュアルを見て興味をそそられましたが、そうでなければ難しいキャプションを読むことに
疲れてしまったかもしれません。

ドクメンタでも同じようなことが起こりました。
一つ一つの作品が難解すぎて、カタログを手放すことができなかったのです。
(もちろんJanet Cardiff & George Bures Millerのサウンドインスタレーションなど
理論がわからなくても楽しめるものはありました。)

しかし、「難解」という価値判断が個人的なものからもわかるように、
この難解さは提示された問題からの距離によって生じるものなのではないかと考えました。
Haghighianは日本で知られたアーティストではないと思います。
それは、日本から彼女の提示する問題が遠すぎ、またヨーロッパにフォーカスしすぎているからです。
それが悪いわけではありません。
世界にアーティストはたくさんいるし、それ以上に取り上げられる問題はたくさんあります。
私たちは今、問題の表面をなぞり分かった気になるけど、
一つのペットボトルだけでも大きな問題があって、失われた歴史があるということを
Haghghianは教えてくれるのです。

やはり、アートは欧米で長らく発達してきたものです。
だから、ヨーロッパで、ヨーロッパの問題を深く掘り下げるアーティストもたくさんいて、
彼らの需要は多くあります。
しかし、日本でそれらの作品を紹介しようと思えば、
まず皆の興味をそそらず、その上膨大なテキストを必要とするために、
面倒なことになってしまうのは分かり切ったことです。

その点、前回のブログで取り上げた「平行な物語」モデルは取り上げやすい。
だから、日本では「平行な物語」が優勢で、人気を博しているのだと思います。

それと比べ、Haghghianは「垂直な物語」モデルです。
世界を転覆させることはできないかもしれないけど、小さなところから、
そしてそれを根本から見直そうという姿勢を感じます。
毎日退屈さを感じていたとしても、世界の細部はこんなにも複雑に絡み合っている。
その複雑さをもっと複雑にして、もっとおもしろくしたい。

Haghghianの日本語でのインフォメーションの少なさと
こちらでの人気の反比例は、私が日本とこちらのアートの需要の違いの面白さを感じた
一つのきっかけとなりました。


ロンドンは今日も曇り空です。
また、近いうちに更新します。

20130314

垂直、平行、または円 物語の拡がり①


現在地はロンドンです。
日本は暑いと聞いたのですが、こちらは毎日雪が降っています。
新しい法王が決まったようですね。
こちらはそのニュースで持ち切りです。

さて、つまらないことは最後に書くとして、
今回は主題の設定について考えてみたいと思います

参考にするのは、次の3つのアーティスト/展示です。
垂直型:Natascha Sadr Haghighian(Carroll/Fletcher,7/20-9/22)
平行型:Ai Wei Wei(Lissonなど)
円型:A Bigger Splash: Painting after Performance(Tate Modern,11/14-4/1)
まず、本題に入る前にこの問題を考えた動機を少し。
もうずいぶん前のことのように感じますが、先日総裁が変わる選挙がありました。
私にとって初めての選挙となり、連日主にネット(ツイッター、fb)から情報収集を行いました。
最もよく目にしたものは「震災後初の選挙で、日本を変えなければならない」というものです。
簡単に言うとそれは「選挙に行こう」、「既存の政治を考えなおそう」という風潮でした。
しかし、蓋を開けてみると自民が圧勝で投票率は低い。
もちろん私の見ていた情報に偏りがあったことも考えられるのですが、
これだけ個人が情報を発信し、それが重要視されるようになったのに
社会への実際的な影響力のなさに少し驚きました。
まだまだネットで可視化されていない人達が社会を動かしていて
こちらは少数派なのかもしれない、それが私の持った率直な感想です。

話は変わって、ジョルジュ・プーレというベルギー人の批評家がいます。
彼の詳細については省略しますが、彼が『円環の変貌』という著作の中で
人類の思考は捉え方が変わっていくだけで結局一つのコンパス(円)しか使っていない 
というようなことを言っていました。
古くは、円は神の象徴だったそうです。
円には終りもなければ始まりもなく、完全な形であり、また完璧な円は自然界に存在しない。
プーレはその「円」が神の象徴だったものから人間がそれを自分たちの象徴とするまでを論述していきます。
まあ、そうだね、と。
今でも人間は絶対的なものや、世界の中心を目指します。
億万長者や不老不死、それは人類の普遍的なテーマのような気がします。

たしかに、リオタールの「大きな物語の終焉」(1979)、
すなわち「もうみんなで共有できる価値とか、夢はない!」という言葉は説得力があります。
趣味は多様化するし、それが理解されなくてもネットで共有できる。
しかし、一概にそれを受け入れてもいいのかという疑問が、選挙やプーレから紡ぎ出されました。

前置きが長くなりましたが、ここから本題に入ります。
これらの動機から、今回は物語の構造とその共有について、大胆にも3つのタイプに分類し、考察できたらと思います。
そして、折角こちらにいて上質な展示を見る機会が多くあるのでついでに展覧会評も行っていこうと思っています。

まず、馴染みの深い作家、Ai Weiweiから。
アーティストの影響力をランク付けするpower100で1位に選ばれたAi WeiWei。
反社会的な作風で知られる、中国を代表する作家。
北京オリンピックの時スタジアムの設計などを依頼されるものの、
当局に拘束され、世界的な注目を浴びる。
去年の夏はAi WeiWeiを見ないことがなかったほど、ヨーロッパでは人気者でした。
ドイツの大学で教鞭をとることが決まったことも影響したのでしょう。
ロンドンのTATE Modernのエントランスに設置された、
一面を陶器でできたヒマワリの種で埋め尽くす作品は常設に移動され、

Lisson GalleryではNever Sorry、また壁にはストリートアーティストによる落書き。

Sarpentineギャラリーの野外での大型展示。

オスロの現代美術館でも紹介され、ベルリンでも展示。
日本ではここまで騒動になる前に森美術館で紹介されていましたね。

かつての日本がそうであったように、いまや中国は最も注目すべき国となりつつあります。
独特の政治形態、人口の多さ、ビジネスチャンス。
文化の近い日本人から見ても驚くようなニュースがたくさん舞い込んでくる中、
(偽緑化ではげ山をペンキで緑に塗ったニュースは衝撃を受けました)
ヨーロッパから見た中国は未知の場所。
しかし、中国資本の台頭によって、ロンドンでは中国語しか書かれていない商業ポスターがバスの側面になったり、地下鉄にあったりします。


じわりじわりと近づいてくる中国。
その現実を切り取り、批判し、体当たりするAi WeiWei。
「中国が大変なことになっている」のは分かっているけど、「具体的にはよくわからない」。しかし、ヨーロッパにとって中国が「脅威となっている」ことは実感している。
「知りたいのに知れない。」その葛藤を見事にアートという切り口で、反社会的という、ヨーロッパが「見たい視点から」、翻訳してくれたのがAi WeiWeiなような気がします。
今彼は、アーティストというかアクティビストであるという印象を受けますが、
物的な作品もしっかり作っていて、展示はいつも見ごたえがあります。

けれど、いつも彼の展示を見て思うのは、「あくまでこれは一つの見方である」ということです。
何の事柄についても、幾通りの見方があるし、客観的な視点は必要です。
ただ、Ai WeiWeiの場合、なぜか作品に魅了されてしまう前に、若干冷めた視線を持たざるを得ないのは、彼があまりにも「他言語に翻訳されすぎている」という面があるからです。
逮捕騒動など彼の生き様そのものが中国におけるアーティストを体現しているとは思います。ただ果たしてここまで翻訳されてしまった彼の主題はアクチュアルな問題を捉えているのか、ニュース報道のように外からの目線で目につく問題を提示しているだけではないのか。
そういった考えが脳裏をよぎるからです。

例えば、最近日本で映画、「レ・ミゼラブル」の大ヒットがありました。
NHKで映画評論家の人がインタビューされていたのですが、彼は
最近洋画が日本で受け入れられにくかった傾向があり、驚いている と話していました。
NHKはその結果の分析として、ミュージカル映画は普通先に音を取って、それを映像にあとから合わせる方式を取るが、レ・ミゼラブルは役者に歌いながら演技をさせることで、「感情移入をしやすい仕組み」を作ったことが功を奏したのではないか、と言っていました。

その仕組みについては関係ないのですが、その「洋画が日本で受け入れられにくい」ということ。
特にハリウッド映画は日本で人気を博した長い歴史があります。
しかし、近年は旅行が容易になって、文化に対する物珍しさがない。
絵になる風景は付加価値とならない。
そうなると、より深く複雑なコンテクストへの共感が鍵となります。
深く複雑なコンテクストを洋画に求めると、根っこが違うハリウッド文化には共鳴しにくい。
そこにその要望に邦画が答える。そうなると洋画離れはしかるべくして起こったのではないかと思います。

このことからも分かるように、広く受け入れられるものは広く翻訳されやすい仕組みがある。アジアやアフリカのアーティストがよく使う戦法だと思います。
しかし、洋画離れの例から分かるように、それは表面をなぞるようなもので、とっつきやすく、ポップなものにしなければならない。
いわば、遠くにまで浸透させるように、「横に伸びる平行な線」を使い、物語を作るのです。

その根の深さを伝えるのは、次の段階の話で、Ai WeiWeiに限って言うと、彼が一人でできる仕事ではないかもしれないし、彼の死後、振り返ってみてその深さに気づくことができるのもしれない。

大きな物語はもうないかもしれない、でもそれを作り出し、社会を変える。
彼にはそういった力を感じます。
「平行型」の物語には、人を巻き込み、心の片隅に留めておく効果があるからです。
「コンテンポラリーアートとは、何らかの形ではなく、社会における哲学である。」
彼のこの言葉に、その姿勢が現れているような気がしました。


いくら気合いを入れても、結局時間がなくブログを更新できないということがわかりました。この続きがいつになるかわかりませんが、できるだけ早く更新できたらと思います。