20130314

垂直、平行、または円 物語の拡がり①


現在地はロンドンです。
日本は暑いと聞いたのですが、こちらは毎日雪が降っています。
新しい法王が決まったようですね。
こちらはそのニュースで持ち切りです。

さて、つまらないことは最後に書くとして、
今回は主題の設定について考えてみたいと思います

参考にするのは、次の3つのアーティスト/展示です。
垂直型:Natascha Sadr Haghighian(Carroll/Fletcher,7/20-9/22)
平行型:Ai Wei Wei(Lissonなど)
円型:A Bigger Splash: Painting after Performance(Tate Modern,11/14-4/1)
まず、本題に入る前にこの問題を考えた動機を少し。
もうずいぶん前のことのように感じますが、先日総裁が変わる選挙がありました。
私にとって初めての選挙となり、連日主にネット(ツイッター、fb)から情報収集を行いました。
最もよく目にしたものは「震災後初の選挙で、日本を変えなければならない」というものです。
簡単に言うとそれは「選挙に行こう」、「既存の政治を考えなおそう」という風潮でした。
しかし、蓋を開けてみると自民が圧勝で投票率は低い。
もちろん私の見ていた情報に偏りがあったことも考えられるのですが、
これだけ個人が情報を発信し、それが重要視されるようになったのに
社会への実際的な影響力のなさに少し驚きました。
まだまだネットで可視化されていない人達が社会を動かしていて
こちらは少数派なのかもしれない、それが私の持った率直な感想です。

話は変わって、ジョルジュ・プーレというベルギー人の批評家がいます。
彼の詳細については省略しますが、彼が『円環の変貌』という著作の中で
人類の思考は捉え方が変わっていくだけで結局一つのコンパス(円)しか使っていない 
というようなことを言っていました。
古くは、円は神の象徴だったそうです。
円には終りもなければ始まりもなく、完全な形であり、また完璧な円は自然界に存在しない。
プーレはその「円」が神の象徴だったものから人間がそれを自分たちの象徴とするまでを論述していきます。
まあ、そうだね、と。
今でも人間は絶対的なものや、世界の中心を目指します。
億万長者や不老不死、それは人類の普遍的なテーマのような気がします。

たしかに、リオタールの「大きな物語の終焉」(1979)、
すなわち「もうみんなで共有できる価値とか、夢はない!」という言葉は説得力があります。
趣味は多様化するし、それが理解されなくてもネットで共有できる。
しかし、一概にそれを受け入れてもいいのかという疑問が、選挙やプーレから紡ぎ出されました。

前置きが長くなりましたが、ここから本題に入ります。
これらの動機から、今回は物語の構造とその共有について、大胆にも3つのタイプに分類し、考察できたらと思います。
そして、折角こちらにいて上質な展示を見る機会が多くあるのでついでに展覧会評も行っていこうと思っています。

まず、馴染みの深い作家、Ai Weiweiから。
アーティストの影響力をランク付けするpower100で1位に選ばれたAi WeiWei。
反社会的な作風で知られる、中国を代表する作家。
北京オリンピックの時スタジアムの設計などを依頼されるものの、
当局に拘束され、世界的な注目を浴びる。
去年の夏はAi WeiWeiを見ないことがなかったほど、ヨーロッパでは人気者でした。
ドイツの大学で教鞭をとることが決まったことも影響したのでしょう。
ロンドンのTATE Modernのエントランスに設置された、
一面を陶器でできたヒマワリの種で埋め尽くす作品は常設に移動され、

Lisson GalleryではNever Sorry、また壁にはストリートアーティストによる落書き。

Sarpentineギャラリーの野外での大型展示。

オスロの現代美術館でも紹介され、ベルリンでも展示。
日本ではここまで騒動になる前に森美術館で紹介されていましたね。

かつての日本がそうであったように、いまや中国は最も注目すべき国となりつつあります。
独特の政治形態、人口の多さ、ビジネスチャンス。
文化の近い日本人から見ても驚くようなニュースがたくさん舞い込んでくる中、
(偽緑化ではげ山をペンキで緑に塗ったニュースは衝撃を受けました)
ヨーロッパから見た中国は未知の場所。
しかし、中国資本の台頭によって、ロンドンでは中国語しか書かれていない商業ポスターがバスの側面になったり、地下鉄にあったりします。


じわりじわりと近づいてくる中国。
その現実を切り取り、批判し、体当たりするAi WeiWei。
「中国が大変なことになっている」のは分かっているけど、「具体的にはよくわからない」。しかし、ヨーロッパにとって中国が「脅威となっている」ことは実感している。
「知りたいのに知れない。」その葛藤を見事にアートという切り口で、反社会的という、ヨーロッパが「見たい視点から」、翻訳してくれたのがAi WeiWeiなような気がします。
今彼は、アーティストというかアクティビストであるという印象を受けますが、
物的な作品もしっかり作っていて、展示はいつも見ごたえがあります。

けれど、いつも彼の展示を見て思うのは、「あくまでこれは一つの見方である」ということです。
何の事柄についても、幾通りの見方があるし、客観的な視点は必要です。
ただ、Ai WeiWeiの場合、なぜか作品に魅了されてしまう前に、若干冷めた視線を持たざるを得ないのは、彼があまりにも「他言語に翻訳されすぎている」という面があるからです。
逮捕騒動など彼の生き様そのものが中国におけるアーティストを体現しているとは思います。ただ果たしてここまで翻訳されてしまった彼の主題はアクチュアルな問題を捉えているのか、ニュース報道のように外からの目線で目につく問題を提示しているだけではないのか。
そういった考えが脳裏をよぎるからです。

例えば、最近日本で映画、「レ・ミゼラブル」の大ヒットがありました。
NHKで映画評論家の人がインタビューされていたのですが、彼は
最近洋画が日本で受け入れられにくかった傾向があり、驚いている と話していました。
NHKはその結果の分析として、ミュージカル映画は普通先に音を取って、それを映像にあとから合わせる方式を取るが、レ・ミゼラブルは役者に歌いながら演技をさせることで、「感情移入をしやすい仕組み」を作ったことが功を奏したのではないか、と言っていました。

その仕組みについては関係ないのですが、その「洋画が日本で受け入れられにくい」ということ。
特にハリウッド映画は日本で人気を博した長い歴史があります。
しかし、近年は旅行が容易になって、文化に対する物珍しさがない。
絵になる風景は付加価値とならない。
そうなると、より深く複雑なコンテクストへの共感が鍵となります。
深く複雑なコンテクストを洋画に求めると、根っこが違うハリウッド文化には共鳴しにくい。
そこにその要望に邦画が答える。そうなると洋画離れはしかるべくして起こったのではないかと思います。

このことからも分かるように、広く受け入れられるものは広く翻訳されやすい仕組みがある。アジアやアフリカのアーティストがよく使う戦法だと思います。
しかし、洋画離れの例から分かるように、それは表面をなぞるようなもので、とっつきやすく、ポップなものにしなければならない。
いわば、遠くにまで浸透させるように、「横に伸びる平行な線」を使い、物語を作るのです。

その根の深さを伝えるのは、次の段階の話で、Ai WeiWeiに限って言うと、彼が一人でできる仕事ではないかもしれないし、彼の死後、振り返ってみてその深さに気づくことができるのもしれない。

大きな物語はもうないかもしれない、でもそれを作り出し、社会を変える。
彼にはそういった力を感じます。
「平行型」の物語には、人を巻き込み、心の片隅に留めておく効果があるからです。
「コンテンポラリーアートとは、何らかの形ではなく、社会における哲学である。」
彼のこの言葉に、その姿勢が現れているような気がしました。


いくら気合いを入れても、結局時間がなくブログを更新できないということがわかりました。この続きがいつになるかわかりませんが、できるだけ早く更新できたらと思います。

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