20110528

何がアートを阻むのか

お久しぶりです。
しばらくブログの更新を滞らせてしまっていました。
何かを書くということは元来とても好きで、レポート課題はサクサクと進む方なのですが、
自発的に何かを発信するというのは難しいもので、
書きたい気分の時に書き溜めしきってしまったら、しばらくインプット期間に入ってしまいます。
しっかり活動して休憩、とまるでクマの冬眠のようですが。




さて最後の更新が誕生日の3月30日、それ以前以後震災も含め、
個人的なアクティビティとして特筆できそうなことが多くあったので、
それもまた近々まとめようと思います。
一番の変化は早稲田大学に入学したということかもしれないですが。
かくいう今は、アートフェア香港に向かうべく羽田です。
きっとこれを書きあげる頃にはもうあちらに到着しているのでしょう。
それはさておき、こうやって国内外を行ったりきたりしている頃、
特にこの春休みにイギリスにいて感じていたことが今になってやっと、
文字にする気が起こってきたので、それについて今日は書こうと思います。

お題は、「何がアートの成長を阻むのか」。
リーマンショック、ニュージーランドでの地震、エジプト革命、中東情勢不安、リビアの軍事介入、震災、原発事故、アイウェイウェイ拘束、ビンラディン殺害。
適当に思い浮かんだ大ニュースを挙げてみましたが、近年歴史が変わるような事件の多くを私たちは共有しました。
サラ・ソーントン著、「現代アートの舞台裏」を読んだ時、これほどまでにアート界はバブリーなのかと驚きましたが、
それはもう昔の話。リーマンショック以後では情勢が変わってしまったという話をよく聞くようになりました。
ヨーロッパ、特にイギリスでは予算の大規模削減にもちろん文化も含まれ、博物・美術館の入場料の無料に疑問を呈す議論が議会でされていることをTVで見ました。
フランスは予算削減こそしなかった(文化予算を増加させるという話もあります)けれど、やはり手厚いアーティストの失業・再教育手当は要検討中とのこと。
財源がなくなり、アートに支障を来たす(新人が育たない、美術館に来場者が減るetc)または発展が阻まれるという反発は容易に想像でき、また実際行われました。
けれど財源削減、アートに向かうお金が少なくなることはアートにとって、一番の障害なのでしょうか?
私はその意見には違和感を覚えます。

よく言われることですが、アートは非言語コミュニケーション、言葉を共有しなくとも伝わるものがある。
それは一理ありますが、今となればそれはアートの神話のような気がします。
「科学は国境を越える。そこに言語や文法は存在せず、存在するのは数式だけだ。(略)世界を変えるのは科学技術だと信じている。」
きちんと覚えていませんが、これはある科学誌に載っていた言葉です。
これを読んだ瞬間、アートはそれに勝てないと純粋に思ってしまいました。
そもそも作者・観者のコミュニケーションの為にアートはあるのではないと。


けれど、アートは国境を越えます。
一つの作品はそれぞれの文化と共鳴して、また違う解釈を起こさせることができる。
新国際国立美術館(大阪)でしていた「風穴 もうひとつのコンセプチュアル展」ではその西洋主義をあざ笑うかのように
アジアの作家の有名コンセプチュアルの模倣作品が展示されていましたが、いつもいつもそれは劣等感や違和感を抱かれるように受容されるものじゃない。
もちろんマザッチョ、ピカソ、セザンヌ、デュシャン、ウォーホールetcを知らずして現代アートなんて理解できない!という意見はごもっともですが、
そういう正当路線のアート鑑賞者から離れる鑑賞者(美術なんか何も興味がないのに、
たまたま美術館に入ってしまって、頭がこんがらがってしまった人とか)の感想を弾圧するべきではないと思う。
またアートはマテリアルとして存在すること、マテリアルが前面に押し出された状態で展示されることは
大仰な思想や実際に適応される前の言語で説明された難しい科学技術に比べ、優位なところ。
そして国境を越えたアートがその国々で需要され、たまにエスニックなカウンターがメインストリームに入れられる。
それがまた影響され、実践され、アートは発展する。
たくさんの面白い作家がどんどん出てきて、中堅がよいものを創り続け、大御所が安定感とパワーのある作品でアートをひっぱり続ける。
たまに美術史に社会を、思想を、科学、私情を巻き込みながら。
それこそがアートの面白味でもあり、最大の成長要因はないでしょうか。



それを考えた時、一体アートの成長を支えてるものは何か。
それは強そうで脆い、「世界交通」ではないかという結論に至りました。
日本の原発事故後、美術館に作品がこなくなり、展示会が開催できないというニュースを聞きました。
また不安定な中東情勢はこれからアートに力を入れていこうとしていたドバイのことが思いやられます。

同様に、多様性が重視される時代、中国アートの盛り上がりにより西洋中心のアートメインストリームが変わりつつある現代において、
多様性は何によって保障されているかと言えば、結局それはインターネットと世界交通です。
「お金で交通インフラは解決されるから、結局文化予算の削減が悪だ。」そういう意見もあるかもしれませんが、
交通インフラは世界の調和と有効的合意によって成立するものです。
お金に焦点を当てるなら、文化予算というより、国家予算という大きな枠組みで考えなければなりません。

そもそも、科学の発展も日進月歩で進んであるのはもちろんですが、戦時中は戦争ばかりにお金が当てられ軍事関連科学しか発展しない、
もっと言うと有能な若い科学者の卵たちが戦士として戦場に送り込まれ、命を落とすということを見逃すわけにはいきません。
それはきっとアート然りでしょう。

「アーティストになりたいなら、美術館に行け、新聞を読め、本を読め、知識をつけろと僕は言う」と有名なアニメーターの方が前ツイートしていたのが
RTで回ってきたのですが、その通りなのです。
アートにしろ、科学にしろ、ある分野はある分野の崇高な領域をもつようで、それは幻想。
「平和で安全な社会」というものが保障されてこそ、成り立っているもの。
そう考えると、おのずと最近のニュースは目を曇らせるようなことばかりに見えてくると思います。

文化は常に、高度に社会が発展・安定してこそ、文化とみなされるものが多い。
オノヨーコが「軍事業界の結束はとても強い(けれど文化はそこまでではない)」というのはそれを象徴するかのようで。

だからこれからは少しずつ、アート以外のことも発信できていければいいなと思っています。
アートは一元的にイズムとして発展してきたのに、いつの間にはそれは実際直線的発展にシフトした。
どちらがいいとかではなく、アートの特徴である他分野の吸収性が今は裏目に出て、
また非常に脆い形態で発展しているということを実感してしまった以上、
避けられない道であるとは思います。

一生芸術やりましょう。



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以上が香港に行く前に執筆したものです。
ただ、今回の香港アートフェアで少しこの文章と違った角度でものを見ることができました。
アートフェアというお金、マーケットが先行する形でのアートワールド。
それはそれでまた、アートの真理です。
お金はアートにとって第一信条でなくとも、
切っても切れない間柄にある、
そしてお金のアートに占める重要度は日本で感じれる以上に大きい。

そのことはまた追々、まとめようと思います。

それでは今回はこのへんで。