20110129

アートは必要ですか



”いい作品って何ときかれると、強い作品 と答えます。
強い作品って何ってきかれるとほそくてももろくてもちいさくても強靭な存在感のある作品と答えます。
その存在感って何ってきかれると、世界が 「その作品があることを必然として押し出している存在」とこたえます。
じゃその世界ってなにと。”

キュレーターの長谷川さんのツイッターでの発言。


考えさせられますね。
その「世界」って何なんでしょう。
私達が生きる「世界」なのか、アートワールドという意味の「世界」 なのか、それとももっと他の意味の「世界」、もっと包括的な意味での「生」としての「世界」なのか。
どちらにしろ、ここで途切れさせた長谷川さんのこの言葉の意図を考えることもなかなかスリリングで面白いです。
彼女の提示した「世界観」の一欠片を知ること。
また違う地平が広がりそうですね。


「生きてる実感がない。だからアートをする」
と語ったのは村上隆。


写真はお気に入りの写真家、小浪次郎さんの。
生きてるってイメージ、私は勝手にこんな感じです。
強烈な[生]をたまに途上国やスポーツマンに感じますが
普通に生きて、普通に学校行って、普通に生活してたら
恵まれてる日本においてあまり「生きてる」ことを実感することってないです。 
中学生の時とかよく聴いたBUMP OF CHICKENにsupernovaって曲があるのですがその冒頭は
熱が出たりすると 気付くんだ 僕には体があるって事
鼻が詰まったりすると 解るんだ 今まで呼吸をしていた事

で始まるんですけど、結局そういうことだなーなんて思ったり。
宗教の影響力が強いところだと「神様(仏様)今日の生、今日の生きれてる一日を有り難う」って感謝する習慣がありますよね。でも、今日宗教の影響がどんどん薄れてきてる。
それにしばらく前に自傷行為とかの社会現象について考えてた時期があったのですが、
自傷行為に走る理由の一つに「血を見ることによって生きてることを実感し、安心する」っていうのがあって。

なんか繋がったなあ、なんて思ったりもしました。


アートはアートのない世界では「なくてもいいもの」だと私は思っています。
でもアダムとイブみたいにそのリンゴ(=アート)の味を知ってしまったら、もう後戻りはできない。
なぜならそれが生きてることの実感や裏づけにも繋がる。
アートによって自己が更新される。
表現しないと生きていけなくなる。

そういうものなんだと。



これはリアル中学生の時の写真(笑)なのですが、
この時はアートなんか何とも思っていなかった。
でも今と比べてひたすら時間がありました。
時間があって、友達のケータイが羨ましくて
毎日公園で写真撮って、
当時中学が荒れてたこともあったのですが、
毎日怪我したり、走り回ったり、
ガラスを割ってる子とかトイレ壊してる子とかいて
そういう衝撃が毎日あって。
そう、そういう人にはきっとアートはいらないんですよね。
毎日の生活でアートから得る足りないところを補ってるから。
でもアートをこのころ知ってたら、もっと楽しかったかもしれないななんて思います。
発想が豊かになるから。


まあそれはおいといて、今私達がアートを求める理由、
無意識に(名品展とかで作品を拝みに行くのは除く)アート好きがアートを求めるのは
そういう理由なんじゃないかと思います。


心斎橋にコムデギャルソンのアートスペース、SIXがあるのですが、そこの管理人さんとお話しした時、
「同窓会行って、同級生でもアートに関わってる人たちはハツラツとしてた」って仰ってて、
まあそういうことだろうなと。

例えばバナナが好きすぎて30,000 のバナナを盛り上げて展示しちゃったアーティストがいるのですが(写真参考)

元記事 こういうこと考えてて、実行できちゃったらそりゃいつまで経っても若くいられそうですよね。
twitterの村上さん(@takashipom)のツイートも生気みなぎってます。


アートが必要たる理由は、きっと、アートを知ってしまったからです。


そういう結論で今日は終わろうと思います。



そして0000ギャラリーでの企画展は2/4からですw

20110126

旅をして、何を想うか スリランカ(2)


 旅をすることは昔からあまり好きでないです
小さい頃に少しだけ海外を転々とした経験があって、

その時経験した、感じた刺激のありすぎた出来事一つ一つがトラウマになってたりします。
イギリスでだって、辛いことがたくさんありました。
(写真はイギリスの写真です。今年は3000枚くらい写真撮ったww)

でもそれなのに何故旅をするのか。


答えは自分の思考を飛躍させる為です。

少しいかがわしい表現ですが、
私はそれに尽きると思ってます

見たことのないものを見ること

感じたことない空気を感じること
それらは全部大きなインスピレーシヨンとなる。

カントが著書、判断力批判の中で

「美と崇高」という概念に触れるのですが、彼の言う「崇高」
とは「自己更新」、いわゆる「リアリティーの更新」に不可欠な人間をより高次に高めるショックとして語られます。
また他の崇高について研究した学者たち(バーグなど)
もその例として登山などを挙げるのですが、旅から得るインスピレーションはそんな感じです。
恐怖にうち勝つ激しいショックのような類いではなくとも、
新しい価値観が生まれたり。
観光とかで色んなものを見るのは楽しいけど、結局その初めてみた「もの」を通して、自分を感化させること。
 
だから言っちゃえば、何を見るかなんか関係ないんですよね。
ただ異国の空気の下で何かを見るということは、そういうショックを起こしやすい。
もっと言えば、アート作品はそういう装置にもなり得る。
身近にあるショックになり得る。
そういう意味でもおおー!ってなるものは大好きです。
この写真、ゾウ、迫り来すぎて怖かったけど、圧倒されて、
とりあえずわけわかんなかったです。
さて、少しスリランカの話に戻すと、スリランカはインド系の黒人が多い地域なのですが、
植民地時代の名残で、プランテーションで儲けた白人たちももちろんいます。
そして、その白人が労働者として連れてきたインド南部の民族、タミール人がそのヒエラルキーの最下部。紅茶摘みは一生、紅茶摘みにしかなれない。
ひどい格差社会なんです。
だから、数年前まで内戦状態であった反政府組織「タミルの虎」は、それに反抗するような形で活動し、テロを起こした。
でも考えてみれば彼らをそんな不幸な境遇に陥れたのは、スリランカ人(シンハラ人)でもなく、またタミール人でもなく、
植民地支配を行ったイギリスなんですよね。
そう考えるといかに植民地支配はその国を潰すかが分かったような気がしました。
2代に渡る植民地支配はやっぱり文化もねじ曲げてしまうから、
「伝統的」なもの、風景を残すことができないんですよね。
だからこそ、たまにすごく気が重くなりました。
タイなんかの方がずっと行くには楽です。
日本は自ら近代化を推し進めて文化破綻して、まあいいことも悪いこともあるけど、
この国は他者の手によって文化破綻「させられた」 のですから。

この子たちが、この国の未来を一から創っていくんだなあ、これから、どうなっていくんだろうなあって思った旅でした。

まだまだ仏教とかこの国の面白いことは沢山あるのだけど、
いつかの折に引用するとして、今回のレポートはここまで。
また気が向いたら書くとします。

おしまい

20110123

旅をして、何を想うか。スリランカ(1)


こんばんは。
人をキュレーションしたりする作業ってとっても責任感が必要な作業ですね。
改めて実感する毎日です。
そしてその上、気づいたことなんですけど人って「本当に申し訳ない」って思うとき程、謝りにくかったりする。
平謝りなんて簡単なんです。
それをとても実感しました。

そういえば、休憩がてらにこの冬行ったスリランカのアートレポートをしたいと思います。
発展途上国の文化事情、少し気になっていたので。
いい機会なのでまとめます。

まず、スリランカは仏教国。
8割以上が仏教徒。お坊さんの位はとっても高い。
階級制度の色濃い世界やなあって思ったのが第一印象。
まず簡単におさらいすると、スリランカはイギリスの元植民地。
植民地から解放されてからはインドからやってきたタミール人との内戦が勃発。
数年前まで内戦がありましたが、現大統領が沈静化に成功。
首都はコロンボ。

文化事情は寺院を中心とした文化。
アートはほとんど根付いていない印象。
国立美術館は一つ。
ギャラリーは植民地時代にイギリス人が作ったと思われるものがポツポツと。
けれど、まず最初に驚いたのがこの光景。

美術館の前でアーティストが絵をかけて売っていて、意外と地元住民が見ていったり、買ったりしている。
日本でも路上で絵を売ってる人いるけど、ほとんどポストカードとかでここまでじゃないですよね。
レベルはまあまあで、結構有名作のコピーが多かったんですが、なんというかやる気に圧倒されました。
でもこういう文化があるなら、これからアートは活性化するんじゃないかなあとか思います。
需要があってこそ、ですからね。

次にこれは美術館の光景。
ミレーの「落ち葉拾い」は人気なのか、路上で絵を売ってる中にも、壁に絵を描くときでも、たくさん見かけました。
この「落ち葉拾い」の光景が働く人々にとって共感できるからなのでしょうか。

   









また、全体的な印象としてキュビズム的表現が人気、また多かったです。
キュビズム最盛期に植民地にイギリスから絵画が入ってきたからかなあ、と推測していましたが、寺院に行ってなんとなくその謎が解けたような気がします。

これはいわゆる伝統的なスリランカの絵画なのですが、とっても平面的。
古代エジプトもそうでしたが、絵画はこうやって発展していくのかなあ、と考えたり。
そう思えば平面的なキュビズムっていうのはスリランカの人達にとって馴染みやすいものだったんじゃないか、という最終的な結論にたどり着きました。 

これは小学校の壁画。やっぱりキュビズム。
この祈る人々を見たらピカソの絵のコピーというよりは、仏教的な祈りの風景と内戦の終焉を祈っているのかなとか
色々考えさせられました。
これは知り合いのスリランカ人の子供、6歳の男の子が描いた絵です。
面白いですよね。こうやって仏像や僧に囲まれた生活をしていると、子供の描く絵もこうなる。
日本ではやっぱりマンガが人気な分、マンガを描く子供がとても多いように、スリランカではこういう仏教的モチーフを描く子が多いんです。
ちょっとそう考えたらいかに社会が子供の思考に影響を与えるかが分かって、面白かったです。

まだまだ色々書きたいことばでてきたので、明日に続かそうと思います。
なんか面白くない記事wごめんなさい。

それでは。






20110122

An ounce of action is worth a ton of theory.

An ounce of action is worth a ton of theory.
1オンスの行動は、1トンの理論に値す。
ラルフ・ウォルドー・エマーソン
 お久しぶりです。
0000ギャラリーで2/4から行わせていただくキュレーション展の準備と
1/27から始まるテストの準備で倒れそうですw
でも特にキュレーションは絶対に手を抜きたくないので、頑張ってます。
ある理論に行き着いたのですが、人はキャパを越えると精神と身体が乖離するような状態になるのではないか、ということです。
カフカの変身とまでは行かずともきっと極限状態ではそれらはバラバラに自律して動きそうだなあ、と。
けれど正直今はそこまでいきません。
まだ余力があります。
だから、がんばれる。
色々本当にしないといけないこと山積。
頑張ります。

そういえば坂本龍一さんと私が来年から留学する早稲田大学文化構想学部で
佐々木敦さんが教えている「ポピュラー音楽論2」という授業の一環として、
四年生の嘉島唯さんが、坂本龍一さんにTwitter上でインタビューをしていました。
それが、とても面白い。
モノに宿るアウラ、(→アウラとは:原義は「物体から発する微妙な雰囲気」。オーラともとは同じ言葉。あまりいい脚注ではないですが→詳しく)について。
アウラはベンヤミンという哲学者が色々難しいことを述べたり、
それに基づいて現代において印刷物には、USTやニコニコ動画で流れる音楽では、はたまたCDでは、彫刻のレプリカでは、
アウラはどうなったのか?
という議論が多々起こります。

まあそれは時間がないから割愛するとして、

でも単純に、でも結構誰でも直面する難しい問題だと思ってます。


特にこれは小学生とかを例にするとわかりやすいんですが、
工作で作った作品は何を作っても世界で一つのものを作った!と思うんです。
でも見る人によってはまだまだその作品は力がないなあー、とか
どっかで見たことあるなあ、とか思って作り手ほどの力や満足感がそのまま伝わる訳ではない。
例えばヤクルトの容器を使っていて、どんだけ素晴らしい彫刻になっても、
「ヤクルト」って文字が見えたら興ざめしてしまう。
そんな事態も容易に考えられます。
「アウラ」 の宿り方は見る人によって、全然違ってくる。
これは何かを作って、作り手が自己満足で終わって、周りはそのテンションについていけない
っていう文化祭とかでよく起こる現象でもありますよね。(…苦い思い出w)


昔は職人が丹誠込めて作る、圧倒的な技術でアウラが宿ることができた。
でも今、誰でも発信できる時代で、特に音楽なんかはyoutubeとかで聞けて、
そんなにウワー!ってなるのはライブとかに行かない限り感じるのは難しいですよね。
それに、昔はアウラが宿りまくっていた彫刻をインターネットで画像で見るのはまた違う。
これについても、坂本龍一はとても面白いことを言っていて、
ほとんどの絵画の場合、オリジナルと複製は明白ですよね。現代の音楽の場合、事情はもっと複雑。ほとんどぼくたちが受け取る音楽は複製だものね。それでもある「ライブ信仰」。
うーん、考えさせられます。


結局は「信仰」っていう意味で鑑賞者と作家が繋がってた頃はよかったけど、
今はそれもない(→よく言われる議論)
そこで、「共感」で繋がろうとしたら、「共感」を越えられない(→よく最近の若者は…って議論で出ますよね でもこれって日本だけのことかもしれないとは思うんですが)
ある意味、そうして社会を反映するような局面に芸術は立たされている。


そんなこんなを思った議論でした。
ハッシュタグ#popuonで見ることができます。

最後に好評だったので、トマの抽象画をまた貼っておきます^^















取り急ぎ更新でしたw
おやすみなさい。



20110116

いいものについてのこうさつ

文字ばっかりが味気ないから写真を載せようと思うのですが、なかなかいいのがないです
だから楽しそうな写真をとりあえず、貼りますw
2009年イギリス。一昨年の写真。語学学校卒業式。
ドイツ人・フランス人・日本人。
違う文化を持った人達と話すとインスピレーションがどんどん湧いてくる。
素敵。


今日はいいものについての考察。
この前ツイッターでいわゆる「いいもの」っていうのが理解できないと言われ、ハッとしました。
たしかに私もアートを勉強し始めた時は何故それがいいのか全く理解できなかった。
好きな絵は唯一、ムンクの「夏の夜/声」だけでした。
この作品にはグッと引き込まれるものがあって、ムンク展で初めてみたときはしばらくそこから離れられなかったものです。
そういった実際の体験があればこれがいい!と言いやすいのですが、星の数ほどある作品から選別された美術館で展示されている作品を見ても全く惹き付けられるものがなく、何がよくてこれを選ぶのだろうと思うことは多々。
しかし、美術の歴史やアートの理論を学び、実際に意識してアートを見ていくことで、ピンとくるものはどんどん増えてきました。
例えば最近のものでは最近ターナー賞を受賞したトマ・アブツの抽象画。


正直この画像を見たときはかなり興奮しました。
今までこんなに表現の根源に迫った抽象画はあったでしょうか。
凝視すればする程、味のある作品で、また抽象画は大きいものが主流ですが、彼女の作品はこぢんまりしている。
小さいながらも生命を凝縮したような表現。

とか言っても、アートに興味のない人からすれば全く説得力がないんですよね。
そのものがいいか悪いかは正直、「数を見れば」分かるようになると思っています。
0000の谷口さんに「見る目をつけたい」と相談したところ、
「何か作品を買って、毎日意識しないでもいいから見ることが大切」とのアドバイスをいただきました。
そうすることによっていらない表現とかも見えてくると。
そこで家にあった絵画を見える位置に飾り、実践してみたのですが、たしかに効果はあったような気がします。
同時並行して勉強や美術館巡りも多くしたので、どれが一番効果があった、とは言い難いのですが、
ある日突然自分の「見る目」ができました。

こうしてアート界隈の人は自分なりの規準を作っていくのだと思います。
ただ、「見てれば分かるようになるよー」って言うのはあまりにも無責任ですよね。
そこで、前ふりは長すぎましたが、少しでも参考になるようにいくつかの例を挙げてみたいと思います。

まず、私が考えるいいものの条件は(何度も言いますが一概には言えません。色んな形態・主張のアートがあるので。)
「美術史的更新」「優れた技術」「他人とは決定的に違う世界観」「そのもの自身の存在感
があるような気がします。
美術史的更新はいわゆるピカソのキュビズムやデュシャンの泉など。
一見すると美術からかけ離れているかのように見える、あまり美しさを感じられないもの。
コンセプトで勝負をかけてくるようなものです。

優れた技術はダヴィンチのモナ・リザやベルニーニのまるで人体かと思うような彫刻技術など。

他人とは決定的に違う世界観は上に上げたトマアブツや村上隆などを挙げられます。

最後にそのもの自体の存在感は大きければ大きいほどインパクトはあるという傾向(バーネットニューマンの抽象画など)はありますが、圧倒されるようなもの。
おおよそこんな感じでしょうか。


それでもピンとこない方はきっといらっしゃると思うので、著名な方々がおっしゃっていたコメントの抜粋をしたいと思います。
「現代アートの舞台裏」という本からの抜粋です。

Q)傑作の条件とは?

「本質的にその作品に注意を払う人々に対して、尽きることのない価値を与えることが証明されたもの。
『おれたちは5年前、あるいは50年前に作られたものだが、そんなこととは関係なく、現在形のままだ』と。」
byロバート・ストー 2009ヴェネチアビエンナーレディレクター


「作品が見る者にあれこれ語りかけるのではなく、鑑賞者が作品を見ることができること。
あらゆる解釈可能という訳ではなく、固定的な意味に限定されないという意味で。」
レベッカウォレン アーティスト


「アートはどれも時間との新たな関係を味わわせてくれるもの」
マーゴット・ヘラー サウスロンドンギャラリー ディレクター


そんな感じで、今日は終わります。
何かスッキリしていただけたら幸いです。



20110115

キュレーターってなんなんだろう

I never think of the future. It comes soon enough.
私は将来のことは考えない。それはすぐやって来るから/アインシュタイン

英語、勉強しないとなあー。
語学留学行った時の写真。友達を女装させてショーに出させましたw

ところで!関西美大フリーペーパー、SHAKE ARTの代表さんのツイッターでこのブログを紹介していただき、一気に観覧者数が増えました。
皆さんありがとうございます。
でも同時にとってもプレッシャーですw
頑張ります。

昔は新聞記者とか物を書く仕事に憧れていました。
アートのおもしろさを知ってからはアートに関わりたいということでキュレーターを目指しはじめましたが、
今でも「何かを書く」という行為はとても好きです。


せっかく大勢の方に見ていただいているので、今回はよく聞かれる「キュレーター」の話をしたいと思います。
そもそもキュレーターとは、わかりやすく言うと学芸員さんのことです。
日本では学芸員をキュレーターと呼ぶことも多々あります。
しかし、学芸員は作品の保存・修復・研究・展示の設営・教育活動を行うのに対し、
キュレーターは主に展示会を中心に活動します。

少し話しはズレますが、キュレーターって調べたらこんな記事によく出くわしませんか?
あなたが情報のキュレーターにならなくてはいけない理由 
しばらく前までは「キュレーター」と検索すると、この記事が一番最初に出てきたのです。
ざっくり要約すると、「情報の溢れた社会で自分にとって有益な情報を取捨選択する必要性」について、
またそうすることによって「自分だけの価値を見いだすことができる」 という記事です。

アートのキュレーターもそれと似ていると思います。
キュレーターが作品を「キュレーション」というテーマや伝えたいことに沿った「フィルターを通す」活動によって作品を取捨選択、一つにまとめあげる。
これが根本的な役割です。
一人より三人、力を合わす方がより大きな力が出るのと同じように作品も1つより3つの方がよりパワーを発揮する。
しかし、主張が強すぎる作品ばかりを集めたら、互いにその作品たちは力をうち消し合ったりするかもしれない。
だからキュレーターが「展覧会のルール」を作り上手くそこを調節する。
そんな感じです。


ただ、展示会によってはアートシーンに多大なる影響を及ぼしたり、「取捨選択」という行為により時にとても力のある存在になったり、美術的価値観を更新するような展示会を催したり、アートに定義できない価値があるように、それをまとめる展示会も色々な価値・意味合いが発生してくる。その為キュレーターたちの活動や影響は様々です。

有名な展覧会というと1969年ハラルドゼーマンの「態度が形になるとき」。
伝説の展示会です。
展示会自体を作品化した第一人者と言われています。
彼の仕事によってキュレーターが注目されるようになった、と言っても過言ではありません。

また最近の試みとしては、アーティストの魚住剛さんがキュレーター四方幸子さんと共に展示会を作り上げています。
魚住 剛さんHP 
アーティストが作品を作り作品の説明をし、キュレーターが言説をつける。
お互いに強みを生かし合い、世界に通用する戦略を考え、新しい価値観を創造する。
勿論アーティスト自身が自己キュレーションを行うことは一般的ですが、違う立場の人達が多面的にその展示会に関わることで、
より言説の重層性、また作品の理論的強化を図ることができる。


これからはこうやってアーティストとキュレーターが二人三脚していく時代なのではないか、とも思います。

しかし、アーティストキュレーターというものが存在する、またキュレーションを始めると誰でもキュレーターになれる。
じゃあ、プロのキュレーターってなんなんだろう?
という疑問は実際私も拭いきれません。
誰でもできないことをする、そう言ってしまえば簡単なのですが、
日々美術史が更新されていく、作品には色々な見方があるように
キュレーターもどんどんその立場や役割を変えていかないといけない。
各キュレーターにはキュレーター的スタンスが求められています。

だから、一概にキュレーターとはこれだ!とは人くくりにしにくいのです。

しかし、とりあえず現状はこんな感じです。
少しでもキュレーターという仕事が広まってくれれば幸いです。

それではこのへんで。


PS 私事ですが、2月に0000ギャラリーさんでキュレーション展第一回を行わせていただきます。
 おたのしみに!(´ω`)

20110114

All our dreams can come true - if we have the courage to pursue them.

All our dreams can come true - if we have the courage to pursue them.
追い続ける勇気があるなら、すべての夢は必ず実現できる。
/Walt Disney

いつも真面目なことばかり書いているので、今日は少し息抜き。
2010年夏、イギリスへ語学留学に行きました。
イギリスに行くついでにベルギー、フランスに行ったのでその時の写真を少しup。
その名も「新・美術館の楽しみ方」ww

今「作品の鑑賞の方法」を美学的に研究する授業を取っているのですが、ひたすら難しい。
カントの美と崇高やアドルノの音楽の現代性…
アーティストにとってその絵をどう鑑賞されたいかってすごい難しい問題ですよね。
コンセプトがしっかりしてても、息苦しいものなら、「こんな風に見えない」なんて思われてしまうかもしれない。
分からない人には分からなくていい。
自己満足でやってるから人の共感はいらない…

色々スタンスはあると思いますが、鑑賞者の視点から「芸術がどう見られてきたか」を研究するのは興味深いです。
もちろん、こんな深く考えなくてもいいんじゃないのって思うことは多々ありましたが(あまりに難しすぎるが故)
アーティストの作品を見るのは何百人もの鑑賞者。
最近は鑑賞者が介入していけるような作品も増えたし、鑑賞者が自立的に動いていくことによって
新しいアートができるかもしれない。

私自身、キュレーターを目指していますが、キュレーターはアーティストに最も近いあえて命名するなら「第一鑑賞者」的な側面はあるかな、と思っています。

いつの間にか真面目な話になってましたが笑
コンセプトがしっかりある現代のアートに比べ、中世のアートは鑑賞が難しい。
コンセプトを知るわけでもなく、作家の心意気を感じるでもなく。
もちろんそういうことが重視されてない時代だったから当たり前なのですが。
美を授かろうと思いつつも図解学的に見て…とか思ってたら見てて見疲れる。

ベルギー王立博物館は見応えのある中世美術が多くて、途中で疲れてしまいました。
(美術館自体はとてもきれいで、展示に工夫がされていてとても素敵(写真参考)でした。)

そこで、「新・美術館の楽しみ方」!w
まずは写真をご覧下さい。

 ある意味これはアプロプリエイシ(イメージの流用芸術)かもしれませんが、
これをしている間どんだけ面白かったか!w
普通に見てるだけだったら自分→作品の構図ができてしまって、ただ、静かに見るだけ。
これでは疲れてしまってしょうがないと思います。
ただ、こうすることによって、作品→自分への流れも同時にできる。
ある意味体感芸術ですw

私たちは18歳ですが、子供たちにこういうことをさせたら面白いんじゃないかなあ、とかも思いました。
アートを身近にって何か新しいものを作らなくてもこうやってできるんだとかも思った次第です。

でも普通に見て、真っ白の作品だけを写真で撮るよりこうやって
 鑑賞者がいる方が興味をそそられるような気がします。
いったいこの人はこの真っ白な画面から何を感じるのだろうとか思ってみたり。
そう思うと、やはりたくさんの人に見られる作品は幸せかもしれませんね。

真面目なこと書かないつもりやったのに、いつのまにかこうなってしまいました…。

今日はこれでおしまい。



20110110

One should count each day a separate life.


早くトーキョーに行きたい
 One should count each day a separate life.
日ごと、別個の生とみなすべし。 /セネカ

早くトーキョーに行きたいです。
来年度の目標としてはトーキョーワンダーサイトの公募企画に応募してみようと思います。
神戸にもキュレーター応援制度があるらしいのですが、やっぱりトーキョーにいる間に何かできることは探そうと。

毎日真面目なことばかり考えていますが、今日も真面目なことを考える。
最近素敵な画像を見つけるのが好きです。


 つけまつげをつけているところでしょうか。
化粧をすることによって女性はより美しくなる。
最近は電車で化粧をする人が増えたから一概には言えませんが化粧ってどんな風に行われているか
男性の方にとってはあんまりまじまじと見る機会もないし、
女性は女性で人の化粧行程をまじまじと見る機会もなく、
結構神秘的なことかなあ、なんて思います。
それに化粧であれ、美しくなるのは女性の憧れ。
しかもこの髪型を見る限りパリコレの裏かなあ、とか色んな想像がふくらみます。
これも女性の美しさの本質を写すような作品。
彼女のふくれたお腹には新しい命がいて。
彼女のポーズもどこかしら胎児のポーズと似ているような。
そしてこの背景の曲線。女性の表情は決して穏やかではないですがどこかしら優しさを表現するような。
美しい、の一言です。
永遠のファッション界のカリスマ、ケイトモス。
こんな化粧、普通の人がしたらギョっとするけどケイトがしたらこんな風にクールに見えるから素敵。
ケイトって特別美人でもないし、顔が左右対称な訳でもない。
でもこんな化粧だって似合うし、ケイトがすることによってファッションアイコンになり得る。
すごい。

という感じで3つの写真について長々と感想を述べてきましたが、本題はここから。
この写真に共通すること。
被写体が女性、という以前にこの画像達、誰が撮ったものかわからないんです。
例えばtwitterを見て下さい。
たくさんの人がこんな「オシャレ写真」をアイコンにしてると思います。
アートに興味がない人も、興味がある人も。
絵画と写真の違うところ。
最近注目しているのは「サインがない」ということです。
例えば草間彌生の作品は一目見て、彼女の作品って判別することができる。
アートはそれが重要だとも言われたりします。
「自分のスタイルを確立できるようになったらアーティストとして一人前」と。
写真だって杉本博司さんのように、あの水平線の作品は・・・、と判別することも可能ですが、
こうやってネットに回ってくる作品は誰が撮ったものかわからない。
例えば最後のケイトモスの作品は「ケイトモス」と検索したら出てきます。
そしてケイトはかっこいいなあ、という感想が出てくることは安易に想像できますが、
それは「モデル」を鑑賞されただけで「写真」自体は鑑賞されてないんですよね。
それが写真を作品にする難しさでもあり、写真を鑑賞する難しさでもあると思う。
ケイトモスの写った作品は
ケイトの作品なのか、その写真を撮ったアーティストの作品なのか。
それが難しいところ。

ベンヤミンが複製時代の危機、みたいなことを言ってたけど、結局その危機はあんまり訪れなかった。
写真はアートの一ジャンルとして確立された。

アートは一般化一般化って言われてるけど、写真が一番一般に普及したアートでないかなあ、と思います。
ただ、本当に上記の通りネットにたくさん流れている写真家の撮った作品は
作品 じゃなくて イメージ として取り扱われていて、
いくらその写真が誰かに気に入られたとしても写真家まで好きになってもらうことは難しい。

写真にでかでかとサイン入れたらだめなのかなあ、とか思う次第ですw