20110110

One should count each day a separate life.


早くトーキョーに行きたい
 One should count each day a separate life.
日ごと、別個の生とみなすべし。 /セネカ

早くトーキョーに行きたいです。
来年度の目標としてはトーキョーワンダーサイトの公募企画に応募してみようと思います。
神戸にもキュレーター応援制度があるらしいのですが、やっぱりトーキョーにいる間に何かできることは探そうと。

毎日真面目なことばかり考えていますが、今日も真面目なことを考える。
最近素敵な画像を見つけるのが好きです。


 つけまつげをつけているところでしょうか。
化粧をすることによって女性はより美しくなる。
最近は電車で化粧をする人が増えたから一概には言えませんが化粧ってどんな風に行われているか
男性の方にとってはあんまりまじまじと見る機会もないし、
女性は女性で人の化粧行程をまじまじと見る機会もなく、
結構神秘的なことかなあ、なんて思います。
それに化粧であれ、美しくなるのは女性の憧れ。
しかもこの髪型を見る限りパリコレの裏かなあ、とか色んな想像がふくらみます。
これも女性の美しさの本質を写すような作品。
彼女のふくれたお腹には新しい命がいて。
彼女のポーズもどこかしら胎児のポーズと似ているような。
そしてこの背景の曲線。女性の表情は決して穏やかではないですがどこかしら優しさを表現するような。
美しい、の一言です。
永遠のファッション界のカリスマ、ケイトモス。
こんな化粧、普通の人がしたらギョっとするけどケイトがしたらこんな風にクールに見えるから素敵。
ケイトって特別美人でもないし、顔が左右対称な訳でもない。
でもこんな化粧だって似合うし、ケイトがすることによってファッションアイコンになり得る。
すごい。

という感じで3つの写真について長々と感想を述べてきましたが、本題はここから。
この写真に共通すること。
被写体が女性、という以前にこの画像達、誰が撮ったものかわからないんです。
例えばtwitterを見て下さい。
たくさんの人がこんな「オシャレ写真」をアイコンにしてると思います。
アートに興味がない人も、興味がある人も。
絵画と写真の違うところ。
最近注目しているのは「サインがない」ということです。
例えば草間彌生の作品は一目見て、彼女の作品って判別することができる。
アートはそれが重要だとも言われたりします。
「自分のスタイルを確立できるようになったらアーティストとして一人前」と。
写真だって杉本博司さんのように、あの水平線の作品は・・・、と判別することも可能ですが、
こうやってネットに回ってくる作品は誰が撮ったものかわからない。
例えば最後のケイトモスの作品は「ケイトモス」と検索したら出てきます。
そしてケイトはかっこいいなあ、という感想が出てくることは安易に想像できますが、
それは「モデル」を鑑賞されただけで「写真」自体は鑑賞されてないんですよね。
それが写真を作品にする難しさでもあり、写真を鑑賞する難しさでもあると思う。
ケイトモスの写った作品は
ケイトの作品なのか、その写真を撮ったアーティストの作品なのか。
それが難しいところ。

ベンヤミンが複製時代の危機、みたいなことを言ってたけど、結局その危機はあんまり訪れなかった。
写真はアートの一ジャンルとして確立された。

アートは一般化一般化って言われてるけど、写真が一番一般に普及したアートでないかなあ、と思います。
ただ、本当に上記の通りネットにたくさん流れている写真家の撮った作品は
作品 じゃなくて イメージ として取り扱われていて、
いくらその写真が誰かに気に入られたとしても写真家まで好きになってもらうことは難しい。

写真にでかでかとサイン入れたらだめなのかなあ、とか思う次第ですw



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