20120827

Nancy Holt at Haunch Of Venison



半分勉強、半分避暑の目的で訪れたロンドンですがしばらく25℃を超える暑い日が続きました。
今はロンドンを去り、また空の上で文章を書いています。
次の目的地はスカンジナビア半島、ノルウェーです。

ロンドンではセントマーチンズの短期コースでみっちり勉強してきました。
その中でロンドンのアートシーンについて有意義な学びと、素敵な出会いがありました。それはまた追々。

さて、8日間のみの滞在でしたが今回は20くらいのギャラリーを巡ることができました。
前回の投稿で宣言した通り、少しずつレビューを行いたいと思います。
twitterでも少しずつ紹介をしましたが、時間のある時に少しずつまとまった文章を書き溜めます。




―まずはHaunch Of VenisonのNancy Holtから。
Haunch Of Venisonはクリスティーズから多くの支援を受けて運営されているギャラリーです。 ロンドンだけでなくニューヨークにもスペースを持っています。
ロンドンのHaunch Of Venisonは二つあり、今回紹介する大きなスペースの方は、ロンドン最大のショッピング街であるBond StreetとOxford Streetのすぐ近くにあります。
天井が高く日光が差し込み、気持ちのよい2階建てのスペースです。地下にはブックショップもあります。



去年の冬私が訪れた際は「THE MYSTERY OF APPEARANCE」と題された、戦後重要な役割を担った10人のイギリス人ペインターの展覧会がありました。



ベーコンやルーシャンフロイド、ハミルトンやホックニーなど癖のある”扱いにくい”ビックネームばかりを集めた展示でした。しかし、彼らの人間関係に着目し各々の作品に現れる影響関係を提示したキュレーションは、彼らの切り開いた新しい地平線を見事に伝えるものでした。
いいスペースとマスターピースの作品(中には初展示のものもあったそうです)+緻密なリサーチに基づいたキュレーション。大変感銘を受けたことを覚えています。



今回の展示はNancy Holt。
1960-1970年代に盛況したランド・アートにおいてビデオやフィルムを使った表現のパイオニアとして知られるアメリカ人作家です。
(こちらではかなり名前の通るアーティストです)
「Photoworks」と題され彼女の写真ばかりを集めたこの展示は、彼女にとってロンドンでの初個展となりました。

ランドアートと聞いて誰が思い浮かぶでしょうか?
彼女の夫でもあるロバートスミッソン、

20世紀最も美しい写真とも言われた作品を撮ったヴォルター・デ・マリア、

パリのモニュメンタで素晴らしい展示を行ったリチャード・セラ。


しかしこれらの名前を見た時、彼らについて作風の関連性以外で大きな共通点に気づくはずです。
彼らは皆、男性であると。

1960-1970年代。ちょうど「ウーマン・リブ」の運動が始まった頃です。
この活動の中では社会的な差別だけでなく、ステレオタイプなイメージに潜む性差別など日常的な部分にも言及し、後に大きな影響をもたらしました。
その運動が盛んにだったことからも分かるように、当時のアメリカやヨーロッパでは女性の社会進出が盛んとは言えなかった時代です。
特に「男性的」なイズムが強調されたランド・アートにおいてNancy Holtは唯一の女性作家だったことは特筆することができるでしょう。

たしかに彼女の作品は深く自然と関係を持ちながらもセラやロングのような大規模な設置作業はせず、小さな変化を見つけることから作品作りが始まっているような印象を受けました。


また「Photoworks」というタイトルからも分かるように、それらの写真はプロジェクトの記録ではなく写真それ自体を見せようとする試みのようにも見えるのです。
(この視点についてはカナ大先生:通称未熟ちゃんに重要な鑑賞ポイントのアドバイスをいただきました ありがとう!)
それを実証するかのように、光と影の織りなす動きを撮ったまるでドローイングのような作品:Light and Shadow Photo-Drawings(1978)が展示されていました。

そして経路を順にたどっていく最後の2階の展示室では西洋のお墓を写したパネル群が展示されています。
「死」のイメージを感じされるその作品は、例え大規模なプロジェクトをしなくとも同じように被写体の持つ力強さを表現する彼女の特質を伺うことができました。


2012年のロンドンオリンピックでは史上初めて、全競技に女性が参加できるようになったことが話題になりました。 (会期に間に合わず見ることができませんでしたが、ガゴシアンはブランクシーとウォーホールのオリンピック特集でした)


「女性は勉強ができなくてもいいから、家事をしなければいけない」、そういう価値観はもう珍しくなりました。
その現在の価値観でNancy Holtを再検討してみると、彼女が「ランドアーティスト」という以外にも当時の雰囲気を体現していたこと、それにやっと人々は気づくことができるのだ、ということが理解できたのです。
そして、それを如実に示すことができるのは彼女の写真作品であることは間違いないでしょう。
今回もHaunch Of Venisonのディレクションチームはよい仕事をしてくれていました。

ちなみに次の展示は2007年のターナー賞にノミネートされたNATHAN COLEYへと続くそうです。これも面白そうですね。


それではまた近日中に更新できるように頑張ります・・・。

20120818

Letters from London





夏になり、私の現在地は雲の上です。
そろそろまとまった量の軽い文章を書こうと常に思いながら、有思不実行な日々が続いていましたw
せっかく時間が出てきたので、このチャンスを逃さず更新します。
8月18日、親友の誕生日でもあるこの日から1カ月旅に出ることにしました。
最初の目的地はオリンピックの興奮冷めやらぬ、第二のホームタウンロンドンです。

気づけば、私の好きな花が咲き誇った季節は早々に過ぎ去りました。
その花はクロタネソウというハーブの一種で、年長の犬が若かった頃、庭に出るたびよく食べていましたものです。
彼女の体にとってそれは有害だったのか、それとも健康を増進したのか、それはよくわかりません。
ただクロタネソウは彼女の好物でした。





英語名は「love in a mist」。
花を愛に見立てるとすればそれを取り巻く葉から、たしかにその感覚も理解できます。
しかしすぐ枯れるというこの花の特質は、例え霧に紛れてしまっても愛はすぐ解放されるということを暗示しているのでしょうか。それとも一緒に枯れてしまうということなのか。
なにはともあれ、この花はすぐに枯れるものの、すぐ種を宿し翌年一人でに芽を出すのです。
愛の霧は力強く、また迷宮を量産します。
複雑な造形の葉に絡みとられてしまった運命が、今年は一つでも多くちゃんと一人立ちしてほしいものです。

最近はモーリス・ブランショの研究をしています。
彼は文学界屈指の迷宮メーカーです。
イギリスの数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンがペンネーム、ルイス・キャロルを名乗り執筆したのがかの有名な『不思議の国のアリス』。



(画像は1915 WWヤング監督作)


主人公アリスは白うさぎを追って穴に落ち、そこから不思議な国へ舞い込んでしまいます。
しかし、私に言わせてみれば、「不思議の国」は生易しいものではなく、腑に落ちない矛盾や不条理、非常識の蔓延する腹立たしい世界です。
一般的な「アリスはファンタジーの国に迷い込んだ」という認識は受難のアリスにとってあまりにも不憫なもののようにも感じます。
数学の成績が常に著しく芳しくなく、数字の羅列を見るだけで頭痛をもよおした私にとって、「不思議の国」はあまりにも数字の不条理さが反映されているように思えたからです。
"1+1=2"であること(異論もあるそうです)、それは1が1であるという暗黙の了解と見えぬものへの信頼によって成り立ちます。
しかし、本当に1という概念は自律して存在できるのか。そもそも1とは何なのか。1を1と何の疑いもなく受け入れていいものなのか。
それを考え始めると、数学が気に食わない者にとってますます不条理に映るのです。
そう、アリスはそんな「地盤のない世界」に迷いこんでしまったのではないかと、私は同情をしたものでした。

モーリス・ブランショの『アミダナブ』は時に「大人のための『不思議の国のアリス』」と称されます。
主人公トマはアリスと同様、矛盾と不条理にまみれた世界に迷い混んでしまいます。
しかし、アリスとは異なり、主人公トマは上へ上へと自ら登り続け、最後はアリスのような安心安泰の報われる終わりを迎えることはできません。
それが「大人のための」と若干敬遠されるような前置きを置かれてしまう理由でもあるのです。
終始緊張感が漂いスリリングな展開を持つものの、一貫性のある完結した物語を求める読者には不向きとも言えるでしょう。
ブランショ自身、カフカを好んで論じ影響を受けた作家です。
「不条理」というイメージが板についたカフカの影響があるのなら、「あの感じ」が反映された小説と言えば雰囲気は伝が伝えられるかもしれません。

もちろん、今の私たちの生きる世界も一言で言えば不条理で、迷宮的です。
人間の意志で世界は動かしているにも関わらず、突然万人が望んでいる訳ではない戦争や暴動は起こり、恐慌も発生します。
人間の手ではどうにもならない天災の問題もあるでしょう。
どこまで何を信じていいのか、その境界線を引くのか引かないのか。
懐疑の目で世界を見つめると、「地盤のない世界」が姿を現します。





ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えた時から「近代」は芽生えた。大地が動くなら、それを操作する「技術」が必要になり、動く地球を共同で運行しなければならない。これが同時代人に課された運命だ

と寺山修司はドイツ社会主義学生連盟の学生に語られたと言います。しかし、寺山は言うのです。「私は『天動説』にも反対だが『地動説』にもまた反対だ」と。
「人動説」。これが彼の唱えた論理です。
  
天も地も静止している。それを「動いている」と科学した学者の地平線感覚が問題なのだ。万物は静止している。しかし、あらゆる思想は逆転する。眼に見えず数字によっても、把握されずとわれわれの感覚の中に不可避に記録されている無限レースの中に、万物の偶然性を「動かす」論理がある。

ドラマツルギーを徹底的に研究した彼の言葉は、少しばかり演劇的でしょうか。それでも考えるべき論点はそこではないことは、指摘せずとも自明なことでしょう。

クロタネソウはすぐに散ってしまう花でも、種を豊富に育てることができ、花を咲かせ続けることができるのです。「散ってもまた立ちあがれ」、そんな根性論を唱えたい訳ではありません。
クロタネソウが持つもう一つ別の英名を記しておきましょう。
「devil in a bush」、茂みの中の悪魔。





―物事の解決は、一筋縄ではいかない。
問に対する答えが一つとも限らない。
「鳥より高く飛べるのは想像力だけだ。」
人生の教訓はそれに限るとも思います。
異文化のプラットフォームとなるイギリス、そこでいつも私はそのことを実感するのです。


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最近、日本語で情報が得やすいアーティストは「注目の若手か大御所のみ」で「中堅作家」の情報が非常に乏しいことに気づきました。だからこの滞在中、行われている展覧会や作家をブログにて、できるだけ多く紹介し日本語化できたらと思います。頑張って更新します…!

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道に2010年から続けていたプロジェクトが遂に公開に至りました。
Contemporary art studiesです。
興味があればぜひ。