20110122

An ounce of action is worth a ton of theory.

An ounce of action is worth a ton of theory.
1オンスの行動は、1トンの理論に値す。
ラルフ・ウォルドー・エマーソン
 お久しぶりです。
0000ギャラリーで2/4から行わせていただくキュレーション展の準備と
1/27から始まるテストの準備で倒れそうですw
でも特にキュレーションは絶対に手を抜きたくないので、頑張ってます。
ある理論に行き着いたのですが、人はキャパを越えると精神と身体が乖離するような状態になるのではないか、ということです。
カフカの変身とまでは行かずともきっと極限状態ではそれらはバラバラに自律して動きそうだなあ、と。
けれど正直今はそこまでいきません。
まだ余力があります。
だから、がんばれる。
色々本当にしないといけないこと山積。
頑張ります。

そういえば坂本龍一さんと私が来年から留学する早稲田大学文化構想学部で
佐々木敦さんが教えている「ポピュラー音楽論2」という授業の一環として、
四年生の嘉島唯さんが、坂本龍一さんにTwitter上でインタビューをしていました。
それが、とても面白い。
モノに宿るアウラ、(→アウラとは:原義は「物体から発する微妙な雰囲気」。オーラともとは同じ言葉。あまりいい脚注ではないですが→詳しく)について。
アウラはベンヤミンという哲学者が色々難しいことを述べたり、
それに基づいて現代において印刷物には、USTやニコニコ動画で流れる音楽では、はたまたCDでは、彫刻のレプリカでは、
アウラはどうなったのか?
という議論が多々起こります。

まあそれは時間がないから割愛するとして、

でも単純に、でも結構誰でも直面する難しい問題だと思ってます。


特にこれは小学生とかを例にするとわかりやすいんですが、
工作で作った作品は何を作っても世界で一つのものを作った!と思うんです。
でも見る人によってはまだまだその作品は力がないなあー、とか
どっかで見たことあるなあ、とか思って作り手ほどの力や満足感がそのまま伝わる訳ではない。
例えばヤクルトの容器を使っていて、どんだけ素晴らしい彫刻になっても、
「ヤクルト」って文字が見えたら興ざめしてしまう。
そんな事態も容易に考えられます。
「アウラ」 の宿り方は見る人によって、全然違ってくる。
これは何かを作って、作り手が自己満足で終わって、周りはそのテンションについていけない
っていう文化祭とかでよく起こる現象でもありますよね。(…苦い思い出w)


昔は職人が丹誠込めて作る、圧倒的な技術でアウラが宿ることができた。
でも今、誰でも発信できる時代で、特に音楽なんかはyoutubeとかで聞けて、
そんなにウワー!ってなるのはライブとかに行かない限り感じるのは難しいですよね。
それに、昔はアウラが宿りまくっていた彫刻をインターネットで画像で見るのはまた違う。
これについても、坂本龍一はとても面白いことを言っていて、
ほとんどの絵画の場合、オリジナルと複製は明白ですよね。現代の音楽の場合、事情はもっと複雑。ほとんどぼくたちが受け取る音楽は複製だものね。それでもある「ライブ信仰」。
うーん、考えさせられます。


結局は「信仰」っていう意味で鑑賞者と作家が繋がってた頃はよかったけど、
今はそれもない(→よく言われる議論)
そこで、「共感」で繋がろうとしたら、「共感」を越えられない(→よく最近の若者は…って議論で出ますよね でもこれって日本だけのことかもしれないとは思うんですが)
ある意味、そうして社会を反映するような局面に芸術は立たされている。


そんなこんなを思った議論でした。
ハッシュタグ#popuonで見ることができます。

最後に好評だったので、トマの抽象画をまた貼っておきます^^















取り急ぎ更新でしたw
おやすみなさい。



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