20140527

結局アートの正しい見方なんてものはない



(c)Marcel Duchamp

美術館に行ってもどう作品を見ていいかわからない。
美術史を知ってたらもっと楽しんだろうけど。
わけわからないものにお金を払うのはもったいない。
もっと単純にきれいなものがみたかったんだけど。


美術史をかじっていると言うと、3回に1回は言われるこれらの言葉。
たしかに、私もそう思って美術館が嫌いな時期もありました。
しかし、今現在、古代から現代までの美術史をだいたい網羅したという自負があるのですが、それでも「つまらない美術館や展示」には頻繁に遭遇します。
自分のケースだけで判断するのは少々乱暴かもしれませんが、その後、私は「作品を楽しむには美術史だけが必要なのではない」という結論に至りました。


(c)Martin Creed

そもそもの前提として、大きな美術館で行われている展示は、本当に「いいもの」だけを展示しているのでしょうか。

例えば、地方の公立図書館に行けば、その土地出身の作家の作品が多く所蔵されていたり、小さな展示コーナーがあったりします。
その地域出身でない人達にとっては、その作家たちは馴染みがなく、価値を見出しにくい場合もあるでしょう。
しかし、そこに住む市民は、小学生の時受けた「地域の特質を調べる」授業で調べ、少し経歴に対して明るい場合もあるかもしれません。
また、身近な場所である図書館にそういった展示があれば、幼い頃からそれらの資料に触れあい、愛着がわき、それらの作家の作品を読むことで、「故郷」のイメージが強められる場合もあると思います。


(c)Van Gogh

美術館の展示も、それと同じことです。
私にとっての具体的な例はアイルランドでの体験です。アイルランドはイギリスから独立しようと葛藤した時期があります。
当時の画家たちは一連の抗議活動や蜂起に発想を得て作品をつくりました。
ダブリンの美術館でそれらの作品をぱっと見た瞬間、その背景はわかったのですが、それが「名作」として扱われる経緯と私のリアリティーとの共通項を見つけるとは私にとって容易ではありませんでした。
このように、たとえ「美術館」という大きな権威がその価値を保証していたとしても、一個人がそれら全てを「価値のあるもの、価値がわからなくてはならないもの」とみなす強迫観念に苛まれる必要はないと思うのです。


(c)Robert Ballagh


以上の例だけを見ると、結局「経緯」や「歴史」が大事ってことじゃないか!と突っ込みを入れたくなる方も多いと思います。
しかし、本題はここからです。

みなさん、美味しい天ぷらは食べたことがありますか?
あるという方、なぜそれが美味しかったと言えるのでしょうか。
夕方スーパーで安売りされているものとどう違うのでしょうか。
美味しいと感じた理由は、本当にその天ぷらそのものの力でしょうか。
それとも、食べた時の天気やタイミング、一緒に食べた人などがその判断に関係してませんか。


私は、一度本当においしい天ぷらを大阪で食べたことがあります。
今では日本料理の代表格として語られる天ぷらですが、その起源に関してはポルトガルからきた等々、諸説あるそうです。
その天ぷらの歴史を詳しく知って天ぷらを食べると、天ぷらは前にも増して美味しくなるでしょうか?
答えはもちろんノーです。
たしかに、歴史を知るとある種の感動を持って天ぷらを食べることができるでしょう。
ただ、それは味とは関係ありません。美味しいものは美味しいし、美味しくないものは美味しくないです。
それでは、なぜとある天ぷらが美味しいと感じたか、それは以前食べた天ぷら(海外で日本料理が恋しくなって食べ失敗、お弁当の中に入っていて水蒸気で湿気てしまって失敗、等々)との比較から生まれた判断なのではないかと思います。

持論ですが、作品も同じようなものです。
村上春樹が好きな人は、よく村上春樹のどの作品がよかったかを語り、攻殻機動隊好きな人はどのシリーズがよかったかを語りますが、知らぬまに、「印象派=よい」、「ピカソ=すごい」の「常識」に自分を近づけようと必死でそれらを比較し、考え、口に出すことを忘れ去ってしまっていることがあるのではないでしょうか。
たしかにピカソは「すごい」ということには同意しますが、作品数のギネス記録を持つ彼の作品の中には「一級品」から「うーん、まあまあ」まで様々なバリエーションが存在します。


(c)Pablo Picasso

美術史を知った上で、作品を見ることがたしかによいことです。
しかし、美術史だけを勉強して、実際の作品を見ず、自分の経験値、比較対象としてのストックがなければ、作品の「味」はわかりません。

以前から運営しているCAS(Contemporary art studies)でミーティングを行った時、「白い絵を見て白い」ということが大切だ、という、当たり前にも聞こえる気づきを得たことがありました。
深い意味がわからず、脳内で「意味不明なもの」というカテゴライズをし、忘却のかなたに葬る前に作品に対して簡単な感想を持ってみて下さい。
そうすることで記憶にストックができ、偶然訪れた美術館の中の展示、または何回も行ったことがあるのにスルーしていた作品の中で自分にとってかけがえのないお気に入りが見つかる日が来るかもしれません。

最後に、自分の中で「よいもの」は常に変動します。
それは天ぷらの例であげたように、その人天気や気分、一緒にいる人など環境条件によって左右されるものです。
食べ物の場合は、口に入れ飲み込むことができるので、環境条件による影響は少ないという人もいるかもしれませんが、作品の場合は目で見、耳で聞き、「感じる」という、きわめて漠然としたアプローチしかできません。
それに、近年触れる作品は最近は増えてきたものの、ほとんどの作品はは近づきすぎると警備の方に怒られます。
しかし、それはネガティブなことではないはずです。
環境条件によって影響されるからこそ、その瞬間のみしか価値を持たなかったものも現れると思います。
それは、言い換えるとその時期のみしか出会えない価値を見出すことができるということです。
それらの経験がたくさんあると、あとから振り返った時、星と星が繋がって今に至るような、人生が鮮やかに見えるような効果を生むこともあると思います。


(c)Philippe Parreno

アートをみることがなぜ大切かと思うかということは、また近いタイミングで書ければと思いますが、ざっと「アートの見方」を私なりに書いてみました。
もちろん結論は、「正しいアートの見方なんかありません」ということです。
作品を見て楽しくなるまでに時間はかかるかもしれません。
しかし、一度その楽しさを味わうと、美術館に行ける週末が楽しみになるはずです。

次に展示を見る機会があれば、「一般的によいと言われているものはよい」という思い込みをまず捨て、気軽に作品を眺め、気に入った作品にどんなことでもいいので、感想を持つことから始めてみてください。
そして、誰のどの作品をどう思ったか、ぜひ教えて下さい。
みなさんがアートとよい時間を過ごせることを願っています。


P.S. 最近noteというサービスを始めました。
noteを始めてから、このブログとの兼ね合いを悩んでいるのですが、このブログの方がアートに興味がある方に見てもらう機会が多いのではないかと思い、今回は両方に投稿しました。noteには新しい可能性を感じているので、興味がある方はシステム等々を調べてみてもおもしろいかと思います。
そして、ずいぶんほったらかしにしているこのブログですが、もうすぐ3万5000アクセスになろうとしています。
いつも読んで下さってるみなさん、ありがとうございます。
またどこかでお話しましょう。

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