20130328

デュシャンのおもしろい話とネルソンのおもしろくない話


ロンドンはこのところ雪がちらつき、皆春はどこいったの!と嘆いています…。かくいう私も、日本の桜の写真をみて、ここにいると考えられない春の日差しを遠い目をしながら待っています。

serpentine gallery Fischli/Weiss  Rock on Top of Another Rock  8 March 2013 - 6 March 2014

前回まではシリーズで物語の構造について、3度続けて書いてきたのですが、今回はそれについて発展させて考えていければと思います。
タイトルはデュシャンのおもしろい話とネルソンのおもしろくない話。
Barbican Centreで行われたデュシャンの展示と、Matt's Galleryで行われたネルソンの展示を比較したいと思います。

London City Universityは、「Barbican Centre(バービカンセンター、Centreはイギリス英語 Centerと同じ意味)」というかなり大きな芸術複合施設を持っています。展覧会会場だけでなくシアターやコンサートホールも完備していて、カフェレストランは安くておいしく、木曜日は夜10時まで開いています。ご飯を食べる約束ついでに展覧会も見れるのでなかなか優秀なところです。以前は石上純也さんの展示や、雨の中を歩くとセンサーで感知して雨粒が人をよける作品なdが展示されていました。
今回のデュシャン展はDancing around Duchampというタイトルで、ビジュアルアートだけでなく音楽、ダンス、演劇、映画とコラボレーションさせるというものでした。(冒頭の映像がとてもいいです)

ビジュアルアートの部分は交友があったジョンケージ、クリス・カンニガム、ラウシェンバーグ、ジャスパージョーンズが紹介されていました。
2年前、ヘイワードギャラリーでジョンケージ展にて、ケージの講義の録音を聞いたことがあったのですが、そこではまず「自分はデュシャンから最も大きな影響を受けた」と語られていて、この関連性には納得のいくものでした。また、私が訪れた際は運よく会場でコンサートが開かれていて、ケージの「Ryoanji(龍安寺)」が演奏されていました。(現在ガゴシアンギャラリーではラウシェンバーグの作品が展示されています。)
「現代アートの父」とも言われ、現在も多くのアーティストに影響を与えてるデュシャン。
私の経験からいっても、現代アートの講義でも最初に教えられる作品は「泉」でした。
しかし、今まで「デュシャン展」に幾度か足を運んだり、常設展にあるデュシャンを何度も見てきたのですが、彼の作品はビジュアル的にそんなに面白くない、というのが私の意見です。
見飽きたというのも一因として考えられるし、コンテクストが複雑すぎるというのも考えられますが、今回、その要因について考えて見たいとおもいます。
バービカンの映像でもいわれていたように、デュシャンはそれまでの伝統を破り新しさを作った人です。バービカンの展示では、「artとlife」の折衷というようなセクションがあったり、彼が生み出したハイブリッドさについて語られています。
彼の作品はそれまでのアートの文脈や社会に呼応するように作られ、天才だったが故に理論も複雑で難解です。大ガラスのメモなどは未だに解明されていないとも聞いたこともあります。

文脈がしっかりしていて、独自の理論がある、そして謎が多い。
デュシャンの作品の傾向は要約するとこんな感じなのではないでしょうか。
そして、この条件が揃うと何ができるか。
答えは、論文が書きたくなる……………です。
そこで、私が割とストンと納得できたのは、デュシャンはバービカンが提示したような諸ジャンルにも影響を与え、近くなっただけではなく、アカデミズムにも近いということです。
文脈化して、書籍を出し、積み上げていくのは今でもアカデミズムが担っています。
美術史もアカデミズムなのだから、デュシャンが重要視されるのはごく自然なことです。
だから、デュシャンはアカデミズムにとって、「おもしろい話」となるのです。

ここで、少し気分を変えてネルソンの話をしたいと思います。
タイトルで「おもしろくない」と切り捨ててしまったのですが、ここまで来るとその意図を分かっていただけると思いますが、いかがでしょう。
例えば、ネルソンの経歴を省略するために、第54回ベネチアビエンナーレの感想ブログをリンクします。彼の作品への感想は最後に「単に視覚的効果のみの雰囲気重視のパビリオンに終わってしまっていた。」と締めくくっています。
彼はイギリス出身のアーティストでインスタレーションを主に制作します。そして、彼の作品は保存されないもの(サイトスペシフィック)なものがほとんどを占めます。イギリスのアートの最高峰ターナー賞を2001年に受賞。tate britainには彼の迷路の作品「The Coral Reef」が常設されています。

彼の作品を要約すると、「得も言われぬような、おどろおどろしい」という文章に尽きると思います。
今回の展示のコンセプトも、今までの彼の展示を総括して、「存在すること」を主眼に置きながら「存在と不在」を混ぜ合わせる、というような何とも曖昧なものでした。

さて、このような作品をいかにしてアカデミズムの文脈付けることができるのでしょうか。
彼の作品は、何を言ってもなんとなく的外れな、「それは個人の見解による」、「証拠不足」などと却下され、挙句100年ほど後に「当時の社会状況と呼応した」などと言われそうな作品です。
すなわち、アカデミズム的に「おもしろくない」作品なのです。
そして、それは同時に何を意味するか。
「言葉で説明すればするほど面白くなくなる」、「百聞は一見に如かずです」と言いたくなる、そういう結論です。

多くの哲学者が指摘するように、私たちは見ているものを正確に言葉で言い表すことは不可能です。言語コミュニケーションは、代替えのテクニックです。
それを、言語に落とし「学問」という形式を作り出し、文脈をつける努力を、人間は古くから行ってきました。
これもよく言われることですが、「歴史」は「書かれたもの」の積み重ねです。

しかし、分類をできないけどなにか気になるから残っているもの(オーパーツ)、徒労だと言われながらも有名なもの(フィンガネス・ウェイクなど)どうしても年代で分類することしかできなかったもの(エゴン・シーレなど)はたしかに存在します。そうして、今の現代アートの多くは、こうした物語をつけにくい、(アカデミズム的に)「おもしろくない」状況にあります。


アカデミズムとアートの密接な関わり。当たり前の前提として私たちはそれを知っていますが、再考してみるとたしかに!!!!となることが多いのではないでしょうか。
そして、そういったものからはみ出てしまうものを「おもしろくない」と切り捨てることはできるのでしょうか。アカデミズムや歴史への接近は、作家側から積極的に行うべきものなのでしょうか。それとも、無視をしていいのでしょうか。または、アカデミズムの担ってきた役割をマーケットが乗っ取ろうとしているのでしょうか。
実際ブログに投稿する際も、ネルソンのような作家には難しさを感じます。
けれど、私はこれについて独自の見解があるのですが、それについてはまた機会があれば書こうと思います。
今日はこれまで。また私をどこかで見つけたら、みなさんの意見を聞かせて下さい。

おわり。

参考url
haywardのjohn cage
http://www.gramophone.co.uk/features/gallery/john-cage-exhibition-opens-at-hayward-gallery

gagosian ラウシェンバーグ
http://www.gagosian.com/exhibitions/robert-rauschenberg--february-16-2013

Matt's gallery
http://www.mattsgallery.org/
ネルソンと同時開催のスーザンヒラーもおすすめです

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